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    < 水 の 流 れ> (文部省教員海外派遣)

    <シンガポール・マレーシア編>

平成6年9月9日(金)から、約2週間にわたり、シンガポール・マレーシア・オーストラリアへ教育視察に行ってきました。その時、団員全員が当番制で残してある視察日誌を書きます。(団員の皆さん、この紙面に載せることをお許しください)

N010:9月14日<6日目その2>【水の流れ】今日は、移動日です。起床後、荷物をトランクにまとめて、9時出発に間に合うように、廊下に出すことになっています。これをポーターが運んでくれます。いつものようにチケットでバイキング形式の朝食を食べ、バスに乗り込む。最初は、観光客相手の民家風土産屋さんです。売りものの民族楽器が並んでいました。次に、旧サルタン王宮(Istana Besar=イスタナ、ベサール)の見学で博物館になっています。素晴らしい大理石の建物の玄関には、銃を待った兵士が鋭い目で私達をみつめています。1866年サルタン・アブ・バカー建築のビクトリヤ朝風の宮殿と広大な庭園があった。現在も国家的な式典・儀式などに使われている。王座室には、歴代サルタン収集の宝飾品・武器(水晶のテーブル、金の食器、中国の陶器、日本の陶器の他に、狩猟で捕まえた獲物の剥製や骨)を展示してあった。ここから、バスに乗って町を離れて農村地帯へ行った。舗装がなくなり、かなりの凹凸のある道路を飛ばして行きました。道の両側には、サトウキビ、パイナップル、そして、ゴムの木が整然と並んでまるで林みたいでした。着いたところが、「Tropical Plantaion」と看板がありました。自営の観光農場と言ったところです。そこには、マンゴ、パパイヤ、オイルヤシ、トマト、ヒマワリ、ブーゲンビリア・・・いろいろな果樹木が植えられていました。裏のゴム林で、ゴムの樹液採集の実演をしてくれました。もうとうに、12時を過ぎていましたが、お昼は漁村での海鮮料理です。密林を開墾した農耕地帯から、海を目指してバスが走りました。やっと着いたところは観光地らしくないところで、板張りの突き出た食堂でした。カニ、エビ、魚などでビールのつまみにしました。でも、海は濁った色で、そこで取れた魚を水揚げしていましたが、あまり衛生的ではありません。ここで、私は空腹のあまり、ちょっと、食べ過ぎまして、その後お腹の調子を壊したままのシドニー入りになっていきます。この店で、腕時計を1個日本円で1000円札1枚を払って買いましたが、その後1,2年しか使用できなかったような気がします。食後、船で、河口に出て、イカダと作業小屋の養魚場に着きました。岸のマングローブの林をバックに浮かんでいます。イカダの上を渡り歩いて見学をしました。バスにもどり、一路シンガポールの国境に向かう。さて、税関で全員荷物を持ってバスから降り、係員がトランクを1人づつ持っていくように指示されました。このまま、30人の荷物検査をしていては、飛行機の時間に待ち会わない恐れもありましので、添乗員が日本の文部省研修団一行と説明すると、バスの床下のトランクの検査はなくなりました。おかげでスムーズにとおり過ぎることができました。バスの中からの車窓は懐かしい近代的な街並みになり、、美しくてきれいなチャンギ空港に着く。ここの玄関で、マレーシヤの各学校からの贈り物を日本に送ることになりました。ロビーで機内食が遅くなるからということで、日本食の幕の内弁当(午後6時)を、この後の食事ラシュの予定も知らないまま食べました。帰りにもう一度このチャンギ空港をトランジット(飛行機の乗り換え)に使うので、シンガポールの札はそのままのにしておきました。搭乗時間までフリーでしたが、空港内で働いている清掃員が(年は70代前後)「日本人ですか」と話し掛けてきました。昔、日本の軍隊で働いたことがあるし、有名な日本の都市を言ってしゃべりだした。良く日本語を覚えているといった感じでした。搭乗開始(午後7時40分)。8時10分SQ221便ジャンボジェットはシドニーに向かって飛び出す。機内で時計を2時間進めて午後10時10分にする。10時30分機内食が始まる(夕食後から2時間30分)。例によって奇麗なスチュワーデスを見ながらビールを飲みつつの飲食です。もう胃の中に入らないのにと思いつつも。今から考えると、幕の内弁当は不用です(添乗員の気配り過ぎの感あり)。あとは、機内での就寝です。続きは後日。

N09:9月14日<6日目その1>(水:曇り)9:30 ホテル出発 10:05 モスク・博物館見学 12:30 ペカンナナスにてプランテーション見学 13:30 クコップにて昼食・養殖場見学 16:37 マレーシア出国 16:40 シンガポール入国 17:30 シンガポール航空着 20:15 SQ221でシドニーへ

 

【所感】シンガポール・マレーシア研修中、初めて太陽がのぞく。ジョホールバール市内でのモスク・博物館等の見学を終えペカンナナスのプランテーションへ向かう。途中、油ヤシ・サトウキビ・パイナップル畑が一面に広がり、南国へ来たという印象を強くする。プランテーションではゴムの木からゴムの樹液を採集して、それをゴムに変化させる様子を目にする。教科書や資料では得ることができない素晴らしい体験をする。笑顔で迎えてくれた子どもたち、情熱をもって教育に取り組もうとする先生の意気込みを肌で感じながら、マレーシアでの研修を終える。

N08:9月13日<5日目その3>【水の流れ】夜は,返礼レセプッションです。お祈りの関係で,午後8時半開始です。ホテルの一室で会場を作りました。[GIFU GURU(先生) GIRU DINNER]と会場入り口に表示しました。式次第です。(1)開会の言葉(日本式であることを断る)(2)団長挨拶(3)来賓代表挨拶(教育長さん)(4)乾杯(アルコールがお国柄だめですので,ジュースっだたような気がする)(5)交流(折り紙で「かぶと」や「折鶴」の折り方を披露して手渡した。習字の上手な団員がいまして,「愛」「平和」「友」の字を毛筆で書きました。既に,日本からの準備です。これは、すごい人気で,お手本をみながら、にわかに、書道教室に変わり,毛筆に挑戦された方が多くおられました。)私の隣りにが女の中学校の校長さんでして、緊張していました。会話が英語ですから、このためにプレゼントを日本から持ってきました。家族の写真と住んでいる家屋の写真をわたしました。後,日本の箸と派手な柄の風呂敷も一緒に渡しました。(6)セレモニー(歌と踊りです。男性コーラスは「荒城の月」,女性が「花」,踊りは,郡上の「春駒」でした。)(7)来賓からのセレモニー(歌を歌ってくださいました)(8)別れの歌(「贈る言葉」を全員で唱いました)(9)終わりの挨拶(2020年のマレーシヤをもう一度見に来たいと挨拶)。宗教の関係で,来賓の方は人前でビールを飲まれないので,帰られてから,改めて私たちだけで,ビールで乾杯しました。<後で,分かったことですが,チャーハンの米粒は長粒のもので、ベトナム米とのこと。タイ米はごちそうの時だけ。また、この国は一夫多妻制で4人までOKですが、別れるときには、相当の財産分与があるそうです。>ジョホールバール最後の夜が終わりました。<後日,97年にワールドカップサッカーがジョホールバールで行われたときには大変身近に感じました。>

N07:9月13日<5日目その2>【水の流れ】校舎は、かなり広大な中庭を囲むようにして、ほぼ正方形に配置されていて、回廊がすごく長い。公式訪問と言うこともあって、先生の服装がほぼ統一していました。聞くところによると、BATU KURUNG (バジュ クルー)とBATU KEBAYA(バジュ ケバヤ)と言います。若い先生は派手で綺麗な色を使っていますし、年と共に色合いが変わってくるそうです。購買室に入ると、お菓子やジュース、教科書にノート、日用品など、何でもおいてありました。私はミルクとミネラルウォータを買ってのどの潤わせました。職員室には、先生の姿があまり見あたらないので、聞くと、午前の部の教師と午後の部の教師に別れていて、勤務時間がくい違っているとのこと。また、パートタイムの先生も多いとのことでした。その前を通って、ミーチィングルームに入りました。ここで、VTRでまた学校のいろいろな活動を見せてもらいました。その中でもマーチングバンドはマレーシアでの全国大会で過去に、優秀な成績を挙げていました。「マレーシヤでは、スポーツや芸術などで学校間の交流が盛んです」と説明をうけました。先ほどの講堂にもどると、昼食会場に変わっていました。カレー料理でしたが、ご飯(国産のお米で、粒が小さく細長い。タイ米と似ている)の上にルーを日本のように知らずにかけて食べたところ、辛い 辛い そこで、先ほど購入したミネラルウォータが役に立ちましたが、食後また、購買室で1本(500cc)を買って持ち歩きました。食堂を見てみると、食べる料理にも違いがあり、食べ方も(箸、スプーン、手で)違っています。いろいろな民族が集まってきていることを改めて実感しました。学校を後にするころ午後の生徒達が登校し始めていました。午前中は家で勉強したり、する事がなければ、登校して運動場で遊んだり、図書室で過ごしているそです。14時マレーシアの最終訪問先、ウダ小学校に到着。同じように歓迎。大太鼓と小太鼓やリラを待ったミニタリールックの40人位の音楽隊、竹でできた楽器<ANKLUNG>をもった民族衣装の30人、後ろのには踊り子たち、校舎の横には30人くらいの合唱隊といういでたちです。私達の正面に模擬宮殿が作られ、王族の結婚式の踊りを再現してくれました。明くる民族衣装と化粧のおかげでとても5・6年生とは思えないくらいの妖艶な姿でした。暑い中30分間も演技を熱いアスファルトの上で披露してくれました。校舎は3階建てで2列に並んでいて、その1つの2階で学校説明会でした。学校長は「本校の教育目標は、すべての生徒が他民族と共に世界を築いていくことです」との説明。また、この地区の16の小学校の中心校で、教育研究センターが中に併設してある。ここで、幾つかの学校集団を組織して教育技術の研究をするシステムをTTT(Teaching Technique of Teachers)と言います。さらに、この学校の教育内容で大切にしているの「3Rs」である。それらは「Reading」「Writing」「Mathematics」のことです。でも「M」で始まりのですが、「数学」は「Arithmetics」で、日本語では「算数」になります。要するに、「読み、書き、そろばん」を大切にしているのこと日本と同じだなーと感じる。また、この学校も2部制で午前の部(4・5・6年生)と午後の部(1・2・3年生)に分かれて登校してきます。教室の表札には1・4年組、2・5年組、3・6年組と書いてありますし、机が共通にもかかわらず、不満がないそうです。小学年を授業参観したところ「宗教」でして、アラビヤ語?らしきものが書いてありました。だから、先生(GURU GURU=グル グル)も大変です。マレー語・英語は必修で、時には、中国語、タミール語を話さなければなりません。要は、日本語1つではもう通用しないなーと語学力の重要性を認識してきました。他の教室には、「果物」「野菜」「動物」の絵が張ってあって、マレー語が上に、英語が下に書いてありました。oren=orange, epal=apple,kentang=potato kucing=cat  などです。この後、またまたお茶会です。実に、BATU KURUNGを着た若い女の先生が多いのには驚きました。17時ホテル着。夜のレセプションの様子は明日にします。

N06:9月13日<5日目のそ1>(火:天気晴れ)8:40 ホテル出発 ジョーホールバル教育委員会への表敬訪問 9:30 スコラサルタンイブラム女子中学校へ到着 学校説明と参観 昼食を招待される。14:00 スコラケバングサンUDA小学校訪問 学校説明と参観 17:00 ホテル着 20:00〜22:00 レセプション 

【所感】またもや、昨日に続いての大歓迎を受ける。SRM、PMR等の検定試験をパスする目標の子供たちが真剣に学習している。先生も合格率を100%に限りなく近づけるために努力を続けている。どこ子も明るく素朴でキラキラ輝いた瞳をしている。2020年には日本を追い越すという目標に向かっている教育現場には勢いがある。スコラサルタン女子中学校のスクールモットーである「努力をせずしては得ることができない」に集約された教育が展開されている。マレーシアの5年後は素晴らしい近代国家に変容しているのではないかと思う。

【水の流れ】11日の夜にホテルで買っておいた絵はがきに勤務先の学校と家族宛に昨夜書いた。エヤーメールにも関わらず切手が50¢(約22円)で非常に安かったです。朝食後、フロントに預けてこれでOKです。朝6時前には、市内中に拡声器で「コラーン」のお祈りが鳴り響きます。ちょうど良い目覚まし時計ではあるが、私達には寝起きを悪くするだけです。服装は、カッターシャツにネクタイで、スーツは着なくても良いと言われました。最初の訪問はジョホールバールの教育委員会でした。古い学校を利用しているので小さな建物でした。教育長室では市内の学校の写真が貼られてあり、UPSR,PMR,SPMといった学力試験の各学校ごとの合格率がグラフで表示されていました。訪問者の名簿には、四年前の岐阜県の海外派遣団の名前が残ってありました。私の記帳してきました。そのとき、無断で教育長の椅子に座ったところを写真に撮ってもらいました。スコラサルタンイブラム女子中学校到着。恒例の一階の図書室で学校説明があった後、講堂でお茶会がありました。片隅には10名程度の黄色い民族衣装に身を包んだ子供たちが民族楽器(打楽器の編成)で演奏をしていました。その後、班別に分かれて学校内を見学しました。(この続きは明日書きます。)

N05:9月12日<第4日目その2>【水の流れ】午後、今度は小学校に到着。ここでの歓迎も凄いものがありました。校門には校長や諸先生・PTA役員、そしてカメラマン・・・。女子が先に飾りをつけた棒を持って並んでいる間を入場しました。校庭に入ると、若い女の先生が、氷の入っていない冷たいと思われるジュースをサービスくださいました。昼の辛い食事の影響とこの暑さのため、私はお変わりをして2杯も飲んでしまいました。(今まで、生水は飲まないようにしていたのをこのとき忘れていました。この善意を断るわけにはいきませんでしたので。)校庭の奧の正面にある朝礼台の上に大太鼓による歓迎の連打が始まりました。アスファルトの校庭の正面には着飾った男女の子供達が待機をしていて、民話に基づく舞踊が始まりました。踊り子は裸足ですので、熱いアスファルトの上をやけど覚悟で踊っていました。学校の説明を聞いた後、校内を案内されました。食堂では食事をとっている子供がいたので、教頭先生(通訳通して)に聞いてみると、「マレー系の子供達は10時に朝食をとって祈りを行ってから登校し、前半の授業が終わってから15時に昼食を食べる。中国系の子供達は12時頃に食事を終えている」と説明をうけました。一回りするとお茶が準備してありました。黒砂糖を溶かしたような甘い飲み物、コーヒー、紅茶、・・・ピンクのジュース=シラップ バンドゥング(聞くと、ローズシロップとのこと、バラのポプリシロップを牛乳で薄めたもの))を飲むと凄い香料と甘さでした。ここで、おいしかったのが「サテイ=肉の串焼き」でして、日本の焼く鳥感覚で食べました。私達が「テリマカシ=ありがとう」と言うと、「セラマト・ティンガル=さようなら」と返ってきた。今日の天気が曇っていて、亜熱帯のあの青空や太陽ががなかったので、ちょっと不思議でしたが、3日前にスマトラ島で大火事があって、それで、煙が流れてきているからだそうです。マレーシアにいる間スモッグみたいでうっとしい天気ばかりでした。ホテルの部屋に着くと、昨日は気づかなかったですが、西をさすマーク「KIBLAT」が天井にありました。この先にメッカがあり、一日5回お祈りをします。そう言えば、このとき、一度ネクタイ・背広姿から解放されていました。ただ一度このとき、シャワーを取った後、洗濯(靴下とハンカチ)しました。夜の訪問先は、マレーシアでは、3本の指に入る名門女子校で、UPSR(小学校統一試験),PMR(中学修了資格試験)で優秀な成績を収めた者から選ばれてきます。パーティの外の広場でブラスバンドの演奏がサーチライトのもと行われました。舞台では、民族舞踊(過去に、東京の大会で公演したとのこと)を披露してくれました。ここでも、手作りのマレーシア料理をもてなしてもらいました。辛い料理の後、モンキーバナナやスイカを食べた記憶があります。パーティを終えて帰る午後11時頃でも、全寮制の女子校生たちの学習している姿がガラスごしに映っていました。ホテルにもどって一日の疲れをとりました。

N04:9月12日<第4日目その1>(月:天気曇りにち晴れ)9:10 セコラ・メン・サルタン・イスマル中等学校 歓迎昼食会 14:25 セコラ・ケバンサン・マジデイ・バール小学校訪問 20:00 セコラ・トウン・ファテイマ女子中等学校歓迎夕食会。
 

【所感】研修旅行初めての学校訪問であり、全員が緊張していたが、想像をはるかに超えた歓迎ぶりに驚かされた。各校共熱心な学校紹介と校長先生始め職員・生徒の明るさと笑顔に疲れを忘れ、また、モーニングブレイクやティータイム、更に子供、生徒達による素晴らしいアトラクションの熱の入れ方に全員が驚きの連続であった。[VISION 2020]をスローガンに遅くまで寮で勉強する女子高校生の勤勉さと、日本に比べて環境面での遅れを二部制で必死に学習に取り組んでいる幼い小学生の真剣な眼差しに何か欠けている今の日本を考えさせられた。

【水の流れ】昨夜、マレー語を覚えて使えるようにしました。Selamat pagi(セラマト・バギ=おはよう)、Terimakasih(テリマカシ=ありがとう)Sama Sama(サマ サマ=どういたしまして)Siapa nama awak?(シアパ ナマ アワ?=あなたの名前は?)Air(アエル=水)などです。最初の訪問は気温32℃、湿度90%の熱帯でもネクタイ、背広のスタイルでした。カッターシャッツの下は汗が流れ出てすぐにも着替えたい気持ちでしたが、夜の10時まで公けの時間ばかりでした。セコラ・メン・サルタン・イスマル中等学校は13歳から19歳までの子が通っている学校です。バスが校門に着きました。出迎えの人(肩にビデオをかついだ人、カメラを持った人)が何人か見えます。校門近くには10人ほどの男子生徒が太鼓を一斉に打ち鳴らしての歓迎でした。「Audio Visual Room」で、教育長さんからマレーシア教育についてのお話でした。マレー語の話を英語にしてそれを日本語にするという2人の通訳を通しての説明です。このこらから、団員の皆さんがメモをとって書いておられます。私はそんな準備もして来なかったので、心ではあせりを感じ始めました。今、マレーシアは「ビジョン2020」を合い言葉に、2020年には先進国(東アジア)に追いつこうと教育に力を入れているのです。次に、この地区の小学校の民族別分類が説明された。53校がマレー系、19校が中国系、2校がインド系、9校が中国・マレーの混合、12校が中国・インドの混合になっています。教育改革の1つの全国一斉共通テスト制度があります。小学校卒業時のUPSRから始まり、中高学校3年生修了時に行うSRPというものとPMRという2つがあり、だいたい70%前後合格だそうです。後、校内を見学して回る。購買室を回ったとき、メモ帳と数学の問題集見たいなものを買ってしまう。これを見ていた添乗員の通訳の人(この人はマレー語、中国語、英語、日本語の4カ国語がペラペラ)が日本に帰って、マレー語日本語の辞書を買ってくださいと言われ、ハットしました。本人はてっきり英語版と思っていたが何とマレー語でした。しまった。もう遅い。でも数学ですから、式や図を見て、分かるでしょう。マレーシアでは円周率はπでなく、22/7を使っています。これ本のおかげです。体育館にはテーブルと椅子が準備され、バイキング形式の手作りマレーシア料理です。トウガラシのきいた料理ばかりで、辛くてしかたがなかったです。シャツは白色でスカートが青色の女子の制服きた生徒に「Siapa nama awak?」と言ったところ、チャイニーズとのこと、李 淑 敏(Lee Sok Min)と書いてくれました。良い記念になっています。昼食後、30人程が民族衣装を着て、アトラクション(民族舞踊)が始まりました。こちらはお礼に 郡上踊りの「春駒」を踊りました。テープは日本から持ってきています。この続きは明日のします。<入力に疲れたので。>

N03:9月11日<第3日目>(日:天気曇り)9:20 シンガポール市内見学 13:00 シンガポール発(バス)15:40 ジョホールバール着 17:00 パシフィックホテルにて事前研修会。

【所感】最初の自由時間となる。地下鉄で市内見学に行く者,ショッピングに出かける者,各々僅かの未来に出会う世界に皆心が揺れていた。緑が多く整然としたFineの町シンガポール(この美しさは世界一で、法律で義務づけられているようなものとのこと。ちなみに、ガムの持ち込み禁止ですし、国内では売っていません。まして、たばこの吸い殻のポイ捨ては罰金です。)を後にし2時間後,人の多さ,多様な人種,町並み,コーランの放送など異次元の世界に来たような緊張と不安を感じた。明日から始まる学校訪問の事前研修に入り,合唱,郡上踊りの練習,レセプションの準備に全員が1つにまとまってきた。明日からいよいよ始まる。コーランはいう「アッサラーム・アレイクム(汝の旅路に平安あれ)」と。

【水の流れ】今日は,マレーシアへ入国するため、朝のうちに荷物の整理をしてドアーの外に(ボーイが取りに来てくれますから)出しておかねばなりません。朝食はバイキング形式でして,事前にチケットをもらっていましたので、言葉を交わさずにすんでいます。学校訪問の際に,土産として送る日本の子供が書いた絵画をみんなで分けて保管しなければならないのです。相手の学校に渡すまでは責任があります。午前中,市内で友人と一緒にショッピングをして昼食(日本食)をとる。ここでのレートは1$(シンガポールドル)70円で換算します。午後,ホテルの前からバスにてマレーシアに向かう。小さな海峡を挟んで国境の橋があります。その橋の横には大きな2本のパイプライン(ジョホール水道)があり、尋ねてみると、シンガポール(ダムがないのでマレーシアから輸入)への飲料水とのことです。これが本当のライフライン(生命線)です。税関の係員が「荷物を見せろと言っている」数個バスの床下にあるトランクを降ろして並べようとしたら、添乗員の説明で日本の文部省の視察団だと団員の写真入りパンフを見せて説明すると、何と免れる。この後,パスポートと出国の書類を出して,歩いて橋の中央を渡る。歩いて国境の橋を渡る人もいました。いわゆる,シンガポールへの日帰り出稼ぎやショッピング(商売を兼ねて)のマレーシア人です。今度は入国手続きです。そばには、銃をもった警備員がたっています。言葉を交わさずにOKでした。団体の真ん中にいるのがコツです。バスに乗り込んでマレーシア・ジョホールバール(マレー語で美しい宝石と言う意味です。Johor=Bahruで、Johor=宝石、Bahru=美しい)のパシフィックホテルに到着。打ち合わせのとき、市の教育副局長さんが見えて,「明日の昼と夕食(午後8時訪問のため),その翌日の昼食も訪問した学校で準備します」でも、この食事がどんな物か今の私たちにはわかりません。そこ後,ホテルの丸いテーブルで遅い中華料理の夕食です。このとき、向かいの部屋では結婚式の披露宴がありました。すごく豪華,招待者も多く大宴会場で、日本の披露宴とよく似ていました。お金持ちの中国系の新郎新婦とのことでした。ラッキー。夜の外出については、「治安は良いけど、悪い人が出るから」と添乗員に控えるように言われました。もちろん、宗教上,お酒は禁止,女性は肌を出さないようにベールで被っていました。ここでの換算は1$(リンギット)約44円でした。(

N02:9月10日<第2日目>(土:天気晴れ)8:30 オーチャードホテル出発 9:00 セントサ島着(水族館・昆虫館・歴史博物館視察) 12:00 昼食 13:00 植物園・インド人街・サルタンモス・チャイナタウン・マーライオン(頭がライオンで尾が魚)公園視察 18:00 クルーズ船上にて夕食 21:00 ニュートンサーカス視察。 

【所感】気温34℃、湿度90%というむせかえるような暑さの中でも、シンガポールという街は、脈々と営みを続けていた。英国、日本と支配を受けた歴史の中にも、したたかな国際性と経済力を基盤に今日の国家を築きあげてきたという印象です。美しい街路、斬新なデザインの高層ビル群、自動車対策や住宅問題への国家政策の反映。インド系、イスラム系、中国系、マレー系との他民族国家にもかかわらず、民族問題もほとんどなく共存共栄をなしとげている。世界貿易の中継地点として身に着いている国際性を、明日のマレーシアでも感じさせそうだ。

【水の流れ】セントサ島にある歴史博物館の中には、太平洋戦争中の日本軍によるシンガポール侵略の歴史を今に伝えていました。日本陸軍山下奉文(ともゆき)総司令官とイギリス軍アーサー・パーシバル将軍を中心に15体のロウ人形がおいてあります。太郎さんは、このとき写真等に見とれていて、グループの皆さんに遅れがちになり、約束の時間に出口までいけませんでした。いわゆる遅刻をして迷惑をかけました。でも、これ遅刻はこっきりでした。インド人街でネクタイを買う(日本人の太郎さんにはちょっと長すぎた)。夕食は、港から船に乗ってディナークルーズ。バイキング形式でしたが、飲み物のビールは一人一人から注文をとり、集金にきました。夜の視察場所ニュートンサーカス(Newton Food Centre)とは、約80軒が集まった野外屋台街で、中国・海鮮・マレー・インドなどのローカル料理や果物など、様々な食べ物屋台が並んでいる広場です。マンゴジュースは大変おいしい飲み物でしたが、ドリアンは臭くて日本人にはなじめない果物です。

N01:9月9日<第1日目>(金:天気晴れ)9:00 名古屋空港国際線ロビー集合 11:00 シンガポールに向けて出発 16:00 シンガポールチャンギ空港に到着(日本時間で17:00)16:15 オーチャードホテルに到着 18:30 夕食 20:00 ホテルに戻る。

【所感】11時に名古屋空港を離陸。シンガポール航空の空の旅は快適であった。緊張の顔つきも次第にほぐれてきて機内食の食欲も旺盛。雲海の上を飛ぶ翼は順調に飛行し、17時前にシンガポールチャンギ空港に到着する。気温は31℃と言えども湿度は80%以上と高く、快適な機内の空調に慣れた体からは、じわっと汗が吹き出た。ホテルまでの街道は色鮮やかなブーゲンビリヤの花にあふれ、まさに緑の公園の中を走るハイウエイの様だ。ホテルチェックイン後第一日目の夕食は和気合い合いと話もはずみ、海鮮料理に舌づつみを打つながら、無事到着を喜びあった。

【水の流れ】国際線の飛行機には新婚旅行(ハワイ)以来です。先輩に、飛行機ほど安全なものはないからと言われてきましたが、心の中は穏やかなものではありませんでした。<海外用大型バックの中には、洗濯用品を入れておきましたが、結局この利用中には、1回だけ(ハンカチとソックスを洗う)利用して、後は使い捨てでした。>サービスの良さでは人気上昇中のシンガポール航空です。機内でのスチュワーデスは憧れの職業かもしれませんが大変忙しい仕事ぶりでした。会話は勿論英語でして、団員の皆さんがビールを注文されているのをみて、同じように「ビヤー、プリーズ」と言って、心地よい酔いの中で快適な空の旅をしました。

 < 自 宅 mizuryu@aqua.ocn.ne.jp

 

 

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