平成12年7月31日

<美しい数学の話>

第23話 「高木貞治博士」

太郎さんは、平成12年7月28日の午後、岐阜県本巣郡糸貫町役場にある教育委員会を突然訪れてました。

ここにある「高木貞治博士」の資料展示室を拝見したいためです。今から、世界数学界の金字塔を挙げた日本人の

足跡を書きます。尚。全文はこの資料室にあったパンフレットから引用します。

 貞治は岐阜県大野郡数屋村(今の本巣郡糸貫町数屋)に生まれます。生母つねがみごもってから離別され、実兄

勘助に身を寄せているとき、明治8年4月21日に生まれます。勘助夫婦には子が無かったので、長男として届けます。

生まれた折りは普通より小さくて美しい赤子でした。

 母に伴われて寺詣りすると、帰宅した貞治は聞いてきた説教をこたつのヤグラの上に坐って、そっくり話をしたと言います。

実母も養父も暇さえあれば絵双紙を見せたり、習字をさせたりしたので、七歳の折りには、本願寺聖人御伝書を書き写したほど

です。下の写真(ここでは割愛)がそれです。貞治と署名しています。また、太閤分限帳を明治17年3月に写しているが、

その奥書は「九歳童 高木義憲」となっています。貞治は明治18年、10歳と4ヶ月で「蟻説」の作文を書いています。

 貞治は明治15年4月、一色小学校へ入学します。役場の収入役を勤めていた養父に伴われて、毎日、うち織りの木綿縞

(もめんじま)の着物に帯をしめた貞治が学校へ通います。下校時になると、貞治は役場へ寄り、あいた机に向かって、ひとり

勉強をしながら養父の帰る時刻を待ちます。貞治の学校の成績はとびぬけて居り、神童と呼ばれた程です。当時の小学校は初等科

(3年)・中等科(3年)・高等科(2年)の3・3・2制であったが、明治15年4月に1年生に入学した貞治が同18年には

高等科2年となっているので、いわゆる「飛び級」をしたことは確かです。そんな良い成績でも、時に2番となったことがありま

す。すると養父は貞治に重い机を背負わせて家の外に立たせました。

 貞治は当時、県下にただ一つの岐阜尋常中学校(現在の岐阜高校)に11歳で入学します。16裁か17歳で入学してくるのが

普通であった岐阜尋常中学校へ11歳で入り、英文の教科書で習ったのです。貞治は親元を離れ、岐阜町に下宿して勉強しました。

その努力がみのって、明治22年には学校から賞としてスマイルの自助論1冊をもらいました。また同23年元旦には新年を祝し

て和洋の両文で書いています。満13歳の11ヶ月の作品です。

 明治24年3月、1番の成績で岐阜尋常中学校を卒業します。代数は100点でした。かくて京都の第三高等中学校へ入学し

ます。8月の暑い日、養父と実母は大きな荷を背負って、岐阜駅まで貞治を見送ります。濃尾大震災の直前のことです。三高では

ドイツで学んできた純粋の数学者河合十太郎教授の指導を受け、自身の歩む道を決め、当時わが国でただ一つしか無かった帝国大

学数学科へ入学します。大学では菊池大麓教授について学びます。

 貞治は「私が研究で苦しんでいる時、いつも菊池先生は私の頭の中に現れて、ふしぎに元気づけてくださった。」

といい、また晩年の貞治に

「先生が今でも尊敬して居られる方はどなたですか。」と尋ねると

「やっぱり恩師です。特に菊池先生です。教授としても学長としても文部大臣としても、よくお世話になりました。」

と答えたが、その菊池大麓にめぐり合ったのです。帝国大学を明治30年7月に卒業し、大学院へ進んだが、翌31年文部省

から3カ年のドイツ留学を命ぜられ、ベルリン・ゲッチンゲンなどの大学で数学を専攻します。この折り、フロベニウスから

「自分で考えなさい」と言われたことばが、貞治の一生を通じ、教訓となって生きています。ゲッチンゲンでクラインや

ヒルベルトに学んだことは大きなあかりとして帰国すると、26歳で東京帝国大学助教授となり、明治36年「ガウス数体の

虚数乗法論に関する論文」で博士となり、翌年教授となります。かく大正9年東大理学部紀要に「相対アーベル体の理論について」

を発表し、次いで同11年第二論文を発表し、いわゆる高木の類体論を完成します。

 今日、古典的類体論と呼ばれているものです。貞治の学問のあゆみが深いため、当時、共に研究しようという人が無かったので

、ひとりで研究をおいつめたのです。しかも、その研究を発表するまでに10年の年月をかけたのです。東大教授となってから、

10年間学問的業績の発表をしないまま、ジッと踏みこたえて、いちずに研究し、ついに素晴らしい成果を生んだのです。

その成果については貞治自身

「ヒルベルトが着手した類体論を意表外の規模において完成し得た・・・・・・有名であったクロネッカーの青春の夢も、その

コロラリーとして解決されて、数学界のセンセーションを起こした」

と記しているほどです。東大で数学の講義を受持ちながら、数学の奥行に、神童とうたわれた人が、打ち込んだ金字塔でした。

学問の厳しさを仰がせる足跡です。

 

<水の流れ:コメント> 数学の不思議を体験したく、高木貞治博士の偉大なる業績を紹介しました。

また、同じ岐阜県として、高木先生を誇りに思います。

<自宅>  mizuryu@aqua.ocn.ne.jp

 

 


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