平成11年8月24日

<美しい数学の話><番外>

第6話 「岐阜城」

  岐阜のシンボルである金華山(稲葉山:標高338m)の山頂に岐阜城があり、城内は資料館もある。まわりは急峻な崖で、「百曲り道」「七曲り道」「馬の背道」など、古くからの登山道もあって今なお市民に利用されている。また、城の近辺には米蔵跡、太鼓櫓跡、二の丸門跡、上ヶ格子門跡などがあり、隅櫓などが復元されている。

 この城は古くは稲葉城と言って、建仁年間(1201〜04)に二階堂山城守行政(鎌倉幕府の政所寄人)が初めて、この山頂に築城したという。その後、一時的には廃城になったこともあったようだが、近世的城郭にしたのは齋藤道三である。齋藤家の美濃支配は、道三(どうさん)、義龍(よしたつ)、龍興(たつおき)3代で終わり、1567年(永禄10年)、道三の娘むこで隣国尾張の大名織田信長が城を攻略した。

 信長は城下町の復興に努め、楽市楽座制をしき商人を招いた。1569年、この地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス=フロイスは「8千人ないし1万人の人口を数え、バビロンの混雑を思わせる程」と信長入城を2年後の城下の繁栄を伝えている。町はそれまで井ノ口と呼ばれていたが、信長は尾張の禅僧沢彦(たくげん)の考えた「岐陽、岐山、岐阜」の中から、岐阜を選んで地名とした。

 その後、岐阜城は織田信忠(のぶただ)、信孝(のぶたか)、池田輝政(てるまさ)、豊臣秀勝(ひでかつ)城主が交代、ついで信長の孫秀信(三法師)にかわった。ところが、秀信は関ヶ原の戦いで西軍についたため、1600年(慶長5年)の岐阜城攻めの折り、加藤清正ら東軍によって攻め落とされた。この後、徳川家康は、取り壊した岐阜城の資料を用いて加納城を築かせた。最近、平成の大改築を行い現在に至っている。

 近くに、岐阜公園があり、岐阜市立歴史資料館や名和昆虫博物館などがあります。皆さん、是非、お立ち寄りください。

 

<参考文献:岐阜県の歴史散歩(岐阜県高等学校教育研究会社会科部会)「山川出版社」>              

    <自宅>  mizuryu@aqua.ocn.ne.jp

 

 


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