平成29310

竹中半兵衛重治隠遁の地について (岐阜県不破郡垂井町の栗原山) 
天下統一実現のための軍略に命を懸けた人生でありながら、出世欲や領土的野心は皆無。流血の戦いを嫌う平和主義者であった。
より犠牲者の少ない戦法や説得により主将を味方につけたりした。智謀で平和的な世の実現を目指していた。
また、勉強熱心で知性が高く、信義に篤い人柄。武士道を貫いた高潔な人生を送った人である。

 1544年 祖父竹中重道(重氏)・父竹中遠江守(とおとうみのかみ)重元(しげちか)の子として揖斐郡大野町大御堂城(ご せいどう)で誕生。
名は半兵衛尉重治公 その子丹後守重門(幼名:吉助)。弟に2歳年下 久作重矩がいます。

 1558年 重元は岩手城主・岩手弾正を攻略。半兵衛も岩手に移る。翌年、菩提山に砦を築く。

 1562年 父重元の死により家督を相続、そのまま斉藤龍興に仕える。

 1564年2月 半兵衛、義父安藤守就(もりなり:妻ちさの父)と従者16名とともに弟久作の見舞いとして城内に入り、稲葉城をのっとる。
その際、織田信長から城を明け渡すよう要請されるが、のっとりは主君を諫めるためのものとして拒み、8月に元の城主・斉藤龍輿(たつおき:斉藤道三の孫)に返還。
その責任を取って隠居し、弟竹中重矩(しげのり)に家督を譲る。その後、北近江で浅井長政の食客となる。

 1565年 岩手に帰り、栗原山に隠居。木下藤吉郎が足しげくこの山に登り「三顧の礼」をもって智謀にたけた武将半兵衛を訪ねる。
このとき、信長公に仕えるよう懇願され、半兵衛はようやく説得に応じた。

 1567年頃 織田信長に仕え、羽柴秀吉の参謀(与力)となる。

1573年 小谷城を攻め、お市の方と3人の姉妹(茶々、お初、お江)を助けた。嫡男重門誕生。

1577年 黒田官兵衛の嫡男松寿丸を伴い長浜に帰る。岩手の地で松寿丸を匿い、命を救った。

1579年 三木城攻略の最中。36歳の若さで陣中にて病死。嫡男重門は6歳と幼いため、後見人に久作や源介がなり、以後岩手城領内をよく守った。

 

IMG_matiaruki
戦国時代は栗原山も度々の戦禍に遭い何回も村は焼かれた。
室町時代末期には土豪栗原右衛尉義師(よしかず・よしより・よしみつ・よしもと:読み方不明)が廃寺跡を利用して築いたのが栗原山城の創始者であろう。
栗原山に館を構へ斎藤義龍(道三の長男よしたつ)に仕える。その後竹中重元の叔父に栗原加賀守。栗原加賀守の子に重好、重進(半兵衛からは父重元の従弟にあたる)、
両名は斎藤道三、義龍の鷺山(長良川)合戦(1556年)のとき兄弟相分かれたが共に討ち死す。この後、江戸時代初期に代官として栗原右衛門尉盛清で1619年までいる。

重治の叔父に竹中出羽守重光(栗原重光)、その子重利(幼名竹中源介)<重信・隆重は同じ人物>は後に秀吉に仕え小田原攻めの時には馬回り組頭となり、重治の死後多くの戦に携わった。
また、従弟に当たる重治の妹と結婚し、その子に重義(九州豊後守)がいる。秀吉の遺物として大刀「義光」を受領している。大分市浄安寺に葬られる。

重治公が栗原山に隠遁したことは従弟、妹がいたことや病気がちな半兵衛にとって、眼前に稲葉城が眺められ、身内の歓待を受けながら、空気良し、気候良し、見晴らし良い、周囲が松に囲まれたこの地が療養に優れ、身辺の安全を考えて岩手に住まず栗原山に移り住んだと考えられる。
実際の場所は判明できないが、九十九坊(写真のところ)のあたりと思われる。

99gou1

 

関白豊臣秀次の側室お長について

栗原重光の次男竹中貞右衛門重定は安土桃山時代今の京都市伏見区竹中町に一時期竹中屋敷の中に住んでいた。最後は伏見城の普請奉行となった。

お墓は京都知恩院の慶雲院(勢至堂)にあり、葬られる。(注:平成2937日に行ったが、多くの墓からは簡単に発見できず)

重定の子お長(おちょう)は幼い頃栗原の地で住んでいたと言われている。お長は後に京都の竹中屋敷に移り、父親と一緒に住んでいたと考えられる。

お長は159112関白になった秀次の目に留まり、聚楽邸に住むようになった。しかし、179582日京都三条川原で18歳の短い生涯を閉じる。
子に関白の4男土丸1歳いたが、幼い土丸もお長と運命を共にする

(注:豊臣秀次公ご一族の墓所がある京都瑞泉寺に母子とも祀ってある。この場所は1611年角倉了以により建立された由緒ある寺である)

このとき正室・側室・子(4男1女)侍女合わせて39人が処刑された。処刑されなくて助かった子がいる。
秀次の側室一の台の子で次女(連れ子?)(隆清院で後に真田信繁の4人目の妻となり 高野山九度山で女子名はなお(後の御殿姫)を産み、大坂夏の陣のあと男子(名は幸信)がいる。また、三女お菊(生後1ケ月)も助かる。教養のあるお長(太閤記では)お茶々の方(雑史集では)お知屋の前(瑞泉寺では)には辞世の句がある。
「とき知らぬ 花のあらしさに さそわれて 残らぬ身とぞ なりにけるかな」(太閤記)1625年 現代訳1979

「うつつとは 更に思わぬ 世の中を 一夜の夢や 今覚めぬらん」(雑史集)1921年発行 

 

zisenji57png

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



zuisenji4尚、法名は母 珠月院殿誓光大姉(しゅげついんでんせいこうたいし) 子 普現院殿誓済大童子(ふげんいんでんせいさいだいどうじ)

注 写真はお長の供養塔

雑史集の記述には「六番目には、御土丸と申せし若君の母上なり。是も白き装束に、墨染めの衣着て、物軽々しく出て給ふ。
この方は禅の知識に御縁ありて、常々参学(仏教を学ぶ)に心をかけて、散る花落ちつるこの葉につけても、憂き世のあだにはかなきことを観じ給ひしが、この時もいささかも騒ぎ給ふ景色もなくて、」 とある。

 

 

 

 

 

余談:京都市伏見区竹中町には現在宝酒造の本社があり、お酒の松竹梅には蔵付半兵衛酵母仕込みと書いてあるが、実際は貞右衛門重定が住んでいたことを考えると、貞右衛門酵母と名づけても良い。すると、栗原在住の父栗原重光(重光のお墓は禅憧寺の境内にある)の存在が大きくなったように思える。

 

 

登場人物の生年から死亡の年号

1 祖父   竹中六郎左衛門重道(重氏) (不詳)

2 父    竹中遠江守重元 1499年から1562年没 62

3 本人   竹中半兵衛尉 重治公 1544年から1579613日没 36

4 子    竹中丹後守重門(幼名 吉助)1573年から1631年没 58歳 朝鮮遠征お後備衆200

5 弟    竹中重矩(幼名 久作)1545年から1582年没 27

6 父の弟  竹中出羽守 栗原重光 (不詳)

7 重光の子 竹中丹後守貞右衛門重定(幼名 五郎作)1551年から1610年没 60歳 伏見城普請奉行 知恩院に葬る

8 重光の子 竹中伊豆守重利 (幼名 源介)重信・隆重は同じ人物 秀吉公遺物 太刀義光

1562年(一説には1533年生)から1615106日没 54歳 大分市府内町 浄安寺に葬る

9 重定の子 お長 (1577年から159582日没)18歳 京都の瑞泉寺に葬る

10 お長の子 豊臣土丸 (159582日没) 1歳 京都の瑞泉寺に葬る

11 重道の弟 栗原加賀守 (不詳)

 12  加賀守の子 栗原加賀守重好 (1500年から1556420日没) 56

13  加賀守の子 栗原右衛門尉重進 (1503年から1556420日没) 53

 

 

 

 

 

 最初のページへもどる