平成2912月6日

栗原 の 史跡

栗原の地名

栗原の初見は「続日本紀」天応元年(781年)7月16日の記事に柴原(しばはら)勝子(すぐりこ)(きみ)」が「美濃国不破郡栗原地」を賜うとでています。このとき、子公は「柴原勝」で「栗原連」に改姓したという話が載っているので、それにちなんで地名が「栗原」に変わったとも考えられている。また、栗原の先祖は四世紀末頃からこの地に住み生活をしていたと思われる。なお、はじめから「柴原地」を「栗原地」という資料もあります。「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」にも栗原郷と記載してあります。

注:和名類聚抄は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931 - 938(みなもと)()(そん)(したごう)が編纂した。

 

koganetuka1黄金(こがね)(つか)古墳

 この地一帯が名神高速道路土砂採取地となり樹木を伐採したら、多数の古墳が発見された。境野地区上部の大平古墳群8基のうち、通称「いしぼとけ」栗原古墳群6基が発掘調査された。いずれも円墳で、石室からは、土器の埋葬品をはじめ、刀剣、金の耳輪などの装飾品が発掘された。このうち栗原2号古墳を黄金塚として保存している。壬申の乱後の兵器や財宝の隠し場所が黄金塚との伝説が残っている。現在残っている古墳の中には盗掘の跡が確認されている。

注:墳丘の規模は、後円部の径28.5m、高さ3m、前方部の最大幅は12m、高さ2.5mである。

追加:そのとき発掘された装飾品の一部が垂井ピアセンター内に保管されている

 

 

 

 

 

 

栗原古墳群

G32T02053 境野古墳    境野  山林   円墳 弥生時代

G32T02056 大平3号古墳  栗原  山林   円墳 昭和38年発掘調査

G32T02062 栗原1号古墳  栗原  山林   円墳 昭和37年発掘調査 

町史跡 昭和42126日指定         古墳時代

G32T02063 栗原2号古墳  栗原  山林   前方後円墳 古墳時代

 町史跡 昭和42126日指定

G32T02064 栗原3号古墳  栗原  山林   円墳 昭和30年発掘調査 滅失

G38T02065 九十九坊跡1  栗原山 山林   寺院跡 室町〜安土桃山 

町史跡 昭和32年6月15日指定

G38T02066 九十九坊跡2  栗原山 山林   寺院跡 室町〜安土桃山 

G32T07018 栗原4号古墳  栗原  山林   円墳 

G32T07019 栗原5号古墳  栗原  山林   円墳 

G32T07020 栗原6号古墳  栗原  山林   円墳 

G32T07021 清御子古墳   栗原  山林   円墳 

G32T07022 栗棘庵跡    栗原  山林   中世

G32T07023 清水寺跡    栗原  原野   中世

 

 

(かんむり)(いし)神社

kannmuriisi 栗原山境野部落の西に冠石神社通称「かぶろすさん」という小さな(ほこら)がある。今から50数年位までは現在地より(50m)位南方で石清水が湧き出て石で囲まれた泉水もあり榊、椿等の茂った神々しい境内であったようです。名神高速道路の土砂採集のため現在地に移った。「不破郡史」には(40代天武天皇冠石)「合原村字境野の南山麓に約二十貫目程(80kg)の石あり、天武天皇冠を置き給ひし石なり(壬申の乱の折大海人皇子が吉野より伊勢路を経てご進軍の際栗原山麓を行在地とされた)」と書いてある。また、霊亀3年(713年)に44代元正天皇(独身で初の女性天皇)が養老行幸の際ここで休憩されたとき、冠を置かれた石とされている。棟札があり、「霊亀歳中 人皇四十四代 栗田茂左衛門光宗 元正天皇 御冠石 寶 於時貞亨二歳乙丑八月二日奉勧請 」元正天皇は第一回霊亀3年(713年)と第二回養老二年(718年)の2回養老へ行幸されているので棟札は第1回の時と思われる。貞亨二歳(1685年)です。

注:壬申の乱は西暦672年に起きた古代政権内で皇位継承をめぐる最大の乱いである。天智天皇死後の皇位を巡り、大海人皇子(天智の弟)と大友皇子(天智の子)が対立した。

注:当時の天皇家系図 38代天智、39代弘文(大友)40代天武(大海*祖父)、41代持統(女性:*祖母)、42代文武(*兄)、43代元明(女性:*母)、44代元正(女性)*元正天皇からみて

注:38代天智天皇からの天皇家系図はとても複雑で、天皇と皇后を頂点とした政治体制となる。天武系は48代で後継者なし。以後天智系天皇。

                           

 

 

 

 

長束(なつか)正家陣跡

慶長5年の関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成)に属し、6月に徳川家康が会津征伐に出発するとまもなく見なく水口城を出て大坂城に入り、次いで、安国寺恵瓊と共に伊勢に出陣して安濃津城攻めに加わった。決戦当日、境野付近に陣を置いた長束正家1,500人)は、吉川広家らの裏切りにより本戦に参加できず、西軍が壊滅すると戦わずして居城の水口城へ撤退した。帰還した正家は、9月30日、東軍の武将池田長吉に攻められ、捕縛された。城を開いて切腹(1600103日享年39歳)。(当日、東軍池田輝政浅野幸長との間で小規模な銃撃戦があった)

注:水口城に帰る際、薩摩藩島津義久等偶然出会い、養老山脈を東西二班に分かれて滋賀県水口町まで道案内をしている。

 

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連理の榊

 栗原山の南端頂上近くにあって、昭和501210日に県天然記念物の指定をうけた榊で高さ11m、幹の太さ目通り34m、枝の

長さ東西14mの堂々たる大木『連理の榊』がある。樹齢450年とも云われ、近くで見ると根本で幹分かれた太い幹や枝がいたるところにからみあっているところから、別名縁結びの榊とも呼ばれている。堂々たる榊である。この地は、古くには日本(やまと)(たける)(のみこと)東征の帰路、伊吹山の荒ぶる神と戦って負傷し、玉倉部の清水で生気を取り戻したのちに美濃に出る途中、ここで尾張・伊勢を一望した地と伝えられている。また、この山麓にあったと言われている九十九坊武台殿の跡地とも、栗原城跡とも言われてきた。大正年間にはこの地で弘法信仰が広がり、横穴式の石像が安置されたことから、「奥の院の榊」とも呼ばれてきた。

 

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竹中半兵衛重治隠遁の地  

IMG_matiaruki天下統一実現のための軍略に命を懸けた人生でありながら、出世欲や領土的野心は皆無。流血の戦いを嫌う平和主義者であった。より犠牲者の少ない戦法や説得により主将を味方につけたりした。智謀で平和的な世の実現を目指していた。また、勉強熱心で知性が高く、信義に篤い人柄。武士道を貫いた高潔な人生を送った人である。

 

 1544年 祖父竹中重道(重氏)・父竹中遠江(とうとうみ)(のかみ)重元(しげちか)・母杉山久左衛門の娘の子として揖斐郡大野町大御堂(おおみどう)城で誕生。名は半兵衛尉重治 その子丹後守重門(幼名:吉助)。弟に2歳年下 久作重矩がいます。

 

1558年 重元は岩手城主・岩手弾正を攻略。半兵衛も岩手に移る。翌年、菩提山に砦を築く。

 

1562年 父重元の死により家督を相続、そのまま斉藤龍興に仕える。

 

1564年2月 半兵衛は妻得月院の父安藤守就(もとなり)と従者16名とともに弟久作の見舞いとして城内に入り、稲葉城をのっとる。その際、織田信長から城を明け渡すよう要請されるが、のっとりは主君を諫めるためのものとして拒み、8月に元の城主・斉藤(たつ)輿(おき)(斉藤道三の孫)に返還。その責任を取って隠居し、弟竹中重矩(しげのり)に家督を譲る。その後、北近江で浅井長政の食客となる。

 

1565年 岩手に帰り、栗原山に隠居。木下藤吉郎が足しげくこの山に登り「三顧の礼」をもって智謀にたけた武将半兵衛を訪ねる。このとき、信長公に仕えるよう懇願され、半兵衛はようやく説得に応じた。

 

1567年頃 織田信長に仕え、羽柴秀吉の参謀(与力)となる。

 

1573年 小谷城を攻め、お市の方と3人の姉妹(茶々、お初、お江)を助けた。嫡男重門誕生。

 

1577年 黒田官兵衛の嫡男松寿丸を伴い長浜に帰る。岩手の地で松寿丸を匿い、命を救った。

 

1579年 三木城攻略の最中。36歳の若さで陣中にて病死。嫡男重門は6歳と幼いため、後見人に久作や源介がなり、以後岩手城領内をよく守った。

 

戦国時代は栗原山も度々の戦禍に遭い何回も村は焼かれた。室町時代末期には土豪栗原右衛尉義師(よしのり)が廃寺跡を利用して築いたのが栗原山城の創始者であろう。栗原山に館を構へ斎藤(よし)(たつ)(道三の長男)に仕える。その後竹中重元の叔父に栗原加賀守。栗原加賀守の子に重好、重進(半兵衛からは父重元の従弟にあたる)、両名は斎藤道三、義龍の鷺山(長良川)合戦(1556年)のとき兄弟相分かれたが共に討ち死す。この後、江戸時代初期に代官として栗原右衛門尉盛清で1619年までいる。

 

重治の叔父に竹中出羽守重光(栗原重光)、その子重利(幼名竹中源介)<重信・隆重は同じ人物>は後に秀吉に仕え小田原攻めの時には馬回り組頭となり、重治の死後多くの戦に携わった。また、従弟に当たる重治の妹と結婚し、その子に重義(九州豊後守)がいる。秀吉の遺物として大刀「義光」を受領している。大分市浄安寺に葬られる。

 

重治公が栗原山に隠遁したことは従弟、妹がいたことや病気がちな半兵衛にとって、眼前に稲葉城が眺められ、身内の歓待を受けながら、空気良し、気候良し、見晴らし良い、周囲が松に囲まれたこの地が療養に優れ、身辺の安全を考えて岩手に住まず栗原山に移り住んだと考えられる。実際の場所は判明できないが、九十九坊のあたりと思われる。

 

関白 豊臣秀次公側室のお長

栗原出羽守重光の次男竹中貞右衛門重定は安土桃山時代今の京都市伏見区竹中町に一時期
竹中屋敷の中に住んでいた。最後は伏見城の普請奉行となった。

お墓は京都知恩院の慶雲院(勢至堂)にあり、葬られる。(注:平成2937日に行ったが、多くの墓からは簡単に発見できず)

zisenji57png重定の子お長は1578年生まれで、長松城(城主は重利)の近くの綾野で生まれている。(美濃国諸家系譜から)

その後、お長は後に京都伏見にある竹中屋敷に移り、父親と一緒に住んでいた。重利は秀次が関白になり聚楽第に住むようになったとき、奥に仕える侍女を推すよう求められ、弟重定の娘、お長の方を推した。また、半兵衛の妻の伯父安藤郷氏(兄は守就)の妻が、秀次付家老、山内一豊の姉 通で、山内家と親戚になる。一豊も、お長の方の美貌と状況判断の確かさに感心し、推した。しかし、159582日京都三条川原で18歳の短い生涯を閉じる。子には関白の4男土丸21日生まれで六ケ月がいたが、幼い4男土丸もお長と運命を共にする

(注:豊臣秀次公ご一族の墓所がある京都瑞泉寺に母子とも祀ってある。この場所は1611年角倉了以により建立された由緒ある寺である)

このとき継室・側室・子(4男1女)侍女合わせて39人が処刑された。処刑されなくて助かった子がいる。継室一の台の長女は梅小路家に嫁いだし、次女隆清院で後に真田信繁の4人目の妻となり 高野山九度山で女子なお(後の御田姫)を産み、大坂夏の陣のあと男子(名は幸信)がいる。また、四女お菊は母おこごの方(生後1ケ月)も助かる。

 

教養のあるお長(太閤記では)お茶々の方(雑史集では)お知屋の前(瑞泉寺では)には辞世の句がある。(他にも句は見つかっている)
雑史集の記述には「六番目には、御土丸と申せし若君の母上なり。是も白き装束に、墨染めの衣着て、物軽々しく出て給ふ。この方は禅の知識に御縁ありて、常々参学(仏教を学ぶ)に心をかけて、散る花落ちつるこの葉につけても、憂き世のあだにはかなきことを観じ給ひしが、この時もいささかも騒ぎ給ふ景色もなくて、」 とある。

 

 

zuisenji4「とき知らぬ 花のあらしさに さそわれて 残らぬ身とぞ なりにけるかな」

注 小瀬甫庵太閤記1625年 現代訳1979年にある。

口語訳 季節を知らない風によって多くの花々が散ってゆきます。私もまた他の皆様方とともに、何も残さない身の上となってしまいました。

 

「うつつとは 更に思わぬ 世の中を 一夜の夢や 今覚めぬらん」 

注 雑史集の中にある聚楽物語 1921年発行 にある。
口語訳 現実のこととは、決して思うことができない。この世の出来事はほんの一瞬の、一夜の夢のようです。その夢から今覚めたような気がいたします。

 

『さかりなる こずえの花は 散りはてて  消えのこりける 世の中ぞ憂き』  
注 太閤さま軍記にはある。

口語訳 (満開だった桜が散り果てたように、栄華を誇った私達も落ちぶれました。残されていることは辛いことだと思います。)  

 

尚、法名は母 (しゅ)(げつ)(いん)殿(でん)誓光(せいこう)大姉(たいし)
子 ()(げん)(いん)殿(でん)誓済(せいさい)大童子(だいどうじ)

注 写真は瑞泉寺にあるお長の供養塔

注 秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない助命された人物がいる。

 

1 若御前 正室 池田恒興の娘(注 織田家の家臣、後に羽柴秀吉の家臣になり犬山城、
  大坂城主、大垣城主を務め、小牧長久手の戦いで戦死した猛将)
  1582年清洲会議の跡秀次と結婚2年後小牧・長久手の戦い後不仲になり離縁


2 豊臣十丸の祖母北野松梅院は死を免れている


3 直系の親族では、(たんの)()徹斎(淡輪隆重)の娘・お小督の局との娘(4女)で生後一ヶ月であったお菊は祖父の弟の子の後藤興義に預けられた。


4 父は豊臣秀次、母は一の台の子 隆清院(3)15881633年)は難を逃れている。

後に真田信繁(幸村)の側室となり、御田の方(幼名なお・信繁の五女:1604年誕生)
幸信(信繁の三男1615714日生)を出産した

 

5 隆清院の同母姉(1587年生〜)で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れている。

余談:京都市伏見区竹中町には現在宝酒造の本社があり、お酒の松竹梅には蔵付半兵衛酵母仕込みと書いてあるが、実際は貞右衛門重定が住んでいたことを考えると、貞右衛門酵母と名づけても良い。すると、栗原在住の父栗原出羽守重光(重光のお墓は禅幢寺の境内にある)の存在が大きくなったように思える。

 

栗原村の領主変遷

1603年から1612年までは高須藩初代藩主徳永寿(なが)(まさ)その後長男昌重が1627年まで領主となる。その後1770年まで徳川幕府直轄地。その中で一時期1742年から1750年まではなぜか宮崎県の延岡藩2代目藩主牧野貞通氏。以後江戸時代最後の1867年は大垣藩戸田氏の預所となる。

 

登場人物の生年から死亡の年号

1 祖父   竹中六郎左衛門重道(重氏)初めて竹中氏を名乗る (不詳)

2 父    竹中遠江守重元(彦三郎重基) 1497年から1560年没 62

3 本人   竹中半兵衛尉 重治公 1544年から1579613日没 36

4 子    竹中丹後守重門(幼名 吉助・重政)1573年から1631年没 58歳 
「豊鑑」の作者 朝鮮遠征のときお後備衆として200

5 弟    竹中重矩(幼名久作 重隆・彦作)1545年から1582年没 27

6 父の弟  竹中出羽守 栗原重光 (〜1674年没)垂井町禅幢寺(ぜんどうじ)に葬る

7 重光の子 竹中丹後守貞右衛門重定(幼名 五郎作)1551年から1610年没 60歳 
伏見城普請奉行 京都知恩院に葬る。法名 崇徳(寛政重修諸家譜より)

8 重光の子 竹中伊豆守重利 (幼名 源介)重信・隆重は同じ人物 秀吉公遺物 太刀義光

1532年から1615106日没 84歳(一説には1562年生れとあるが、1564年半兵衛は従兄弟重利に菩提山城託すとある。不自然)
大分市府内町 浄安寺に葬る。法名 逸峯玄俊春岩院(寛政重修諸家譜)

9 重定の子 お長 (1577年から159582日没)18歳 京都の瑞泉寺に葬る

10 お長の子 豊臣土丸 (159521日生まれ82日没) 六か月 
京都の瑞泉寺に葬る

11 重道の弟 栗原加賀守 (年齢不詳)

 12  加賀守の子 栗原加賀守重好 (1500年から1556420日没) 56

13  加賀守の子 栗原右衛門尉重進 (1503年から1556420日没) 53

 

 

牧田合戦

 大永5年(1525年)江州小谷城主浅井(すけ)(まさ)は、美濃進出を狙って北国街道から関ヶ原をでて、伊勢街道と進み牧田に陣を構えた。これに対して美濃国守護土岐(より)(あき)は、これを迎え撃つために栗原山に1700余名の軍勢を率いて到着した。8月2日両軍は栗原・別所・橋爪・牧田付近で激戦を繰り広げた。戦いが始まると、浅井方の優勢のうちに進み、土岐方は重臣および家臣多数を失い大敗した。これを牧田合戦という。この戦いで、大墳城主丸毛兵庫頭・国枝大和守の一族は奮戦して、大手柄を立てた。稲葉備中守通則は、その子五人と共に討死してしまったので出家していた末子が還俗(げんぞく:僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう)して稲葉家を継いだ。この末っ子が、勇将と称えられた稲葉一鉄である。また、この地は曽根城主稲葉備中守・府中城主不破河内守軍勢の陣所になったと思われる。

追加 稲葉一鉄(良通)の兄稲葉通明の娘()は斎藤利三に嫁いだが、1582年山崎の戦いで利光が戦死。その後、4歳のお福は良通の庶長子重通の養女となり、母方の親戚にあたる三条西公国に養育される。後に重通の娘婿に稲葉正成がいたが、妻早死したので正成の後妻になり、24歳頃に正成と離縁する。1604京都所司代によって京都に在住する教養ある乳母募集がなされ、三条西実条の推薦を受け、3人目の稲葉正利を産んだばかりの稲葉福(26)が応募したところ採用が決定。家光の乳母春日局となる。

 

 

九十九坊と石仏

99gou1栗原山の中腹および山麓一帯に、昔「九十九坊」と称する百余坊の寺院があったと伝えられている。「奈良朝(757767)の頃に既に多芸七坊の中に一ケ寺「不破郡栗原山に天台山正覚院末寺久保寺双寺として九十九坊ありき」と天文年間の文書にある。鎌倉初期には100以上の僧坊が建ち並び相当隆盛であったと思われる。建武2年(1335)の足利・新田両氏の戦いで兵火にかかり、焼失したという。

 現在あるおびただしい数の五輪塔・石仏は。往年おそらく全山に営まれた僧坊の近くにあったものを、後世の明治9年(1876)頃この地に集めて弔ったものであろう。石仏は供養塔で室町中期のものと言われている。大正9年に建てた紀念塔(記念ではない)がある。大正8年に施行された史蹟名勝天然紀念物保存法により決まっている。

注:史蹟名勝天然紀念物保存法は大正8年(1919年)410日公布、61日施行で昭和25年(1950年)廃止

 

注:多芸七坊(以下は「橋爪の歴史」村上喜代志著 平成410月発行から引用)

この別所に九十九坊を持つ大寺があったとの伝承があり、象鼻山別所寺という。 別所寺は多芸七坊の一寺といわれる。多芸七坊とは津屋の藤内寺・小倉の光明寺・養老寺・柏尾寺・勢至の光堂寺・竜泉寺・別所寺の七寺で、中世以前に栄えたが、現在養老寺以外は移転して寺名を変えたり廃寺となったりしている。

 

 

清水寺(せいすいじ)と梵鐘

 栗原山中にただ一カ所最後まで残っていた清水寺は、昭和494月に焼失した。この寺は、はじめ天台宗であったが、明応年間(14921501)大道真源禅師が再興して、臨済宗に転宗したという。その後、衰退していたのを万治3年(1660)、当時の栗田六郎兵衛らが協力して再建した。
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この寺の梵鐘(国の重要美術品に認定:昭和17年)が、現在愛知県知多市金沢字郷中の八社神に所蔵されている。この梵鐘には次の銘が刻まれている。

美州不破郡清水寺 奉鋳冶鐘 宝治元年(1247922日 東大寺大工 山河助清 (梵鐘は高さ104.5cm、口径63.0cm)

 当神社の記録によると南北朝初期の戦乱により、一色兵部が戦利品として知多に持ち帰り戦勝祈願(文明2年:1470)として奉納したとのこと

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注 写真は八社神社に奉納された清水寺の梵鐘

 

 

 

 

 

 

 

 

長曽我部盛親陣跡

tyousokabe1 関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成)に属し、栗原山麓および岡鼻(象鼻山の南端)に陣を敷くが吉川広家の東軍への内通に依り敗色が濃厚になると戦わずして逃げようとした。途中口ヶ島村・岩道村に陣を構えた松の木城主徳永寿昌(としまさ)・今尾城主市橋長勝および尾張赤目城主横井時泰は直ちに金屋川原に迎え撃って侍81人、雑兵63人の首を捕った。玉泉寺に戦死者を弔った五輪塔が祀られている。戦後、領地を没収された。その後、浪人となって京に潜伏していた際、大坂の陣で豊臣家に誘われて、大坂方の武将として参陣し、徳川方の藤堂高虎の軍勢を壊滅寸前までに追い詰めた。しかし、最後はあえなく捕まり、惨殺(1615515日享年40歳)された。

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栗原山義人碑

gijinnhi 栗原山の東麓三昧への上り口に栗原山義人碑という大きな石碑がある。

栗原村は往古より水田を営むには用水がなく、又低湿地帯も多く干害と水害の両難に苦しんだ土地の所です。用水は昔から隣村との争いが絶えず天正17年(1589年)にも北の村境を太閤検地のとき大洞谷と定められた。このとき岡田将監が山境に墳を築いたが、代官辻六郎左衛門の時代に、栗原村は八間の猿尾堤を築くことになったのに対し宮代村から異論が出された。ついに文政四年(1821年)6月には用水入れ方について又水論がおきた。このとき隣の表佐村より仲介があったが双方とも納得できず遂には江戸に出て奉行の裁きを待つことになった。栗原より臼井利之、栗田光美等5人が代表となり江戸に行ったが、その裁きを待つうちに子使い方として同行した栗田九郎右衛門のほか4人は病に倒れ江戸の地にて他界した。栗田九郎右衛門は直ぐ栗原に馳せ帰り之を報告する。

この古文書は江戸時代の栗原村庄屋中の筆頭格であった栗田右三郎氏の家に伝わっていたが、明治維新後東京へ出た栗田家が第二次大戦中空襲で焼失したと言われている。前記の事件後百十数年を経て昭和六年(1931年)村人達によりその偉業を偲び記念の碑を建て後世に伝えた。碑文は栗原に生まれ、大学に学び僧籍を得て関ヶ原瑞龍寺の住職になられた天真和尚のものなり。

注 天真和尚は岩手にある禅憧寺木田和尚の弟子になり、修行しながら大垣中学校を首席で卒業

注 天真和尚は母の実家が拙宅で祖父の従弟にあたる。

 

 

 

 

 

 

 

栗原山義人碑文

 

文政中栗原山北堺有被侵之事里人臼井利之

栗田光美等起而訴公争曲直未見其功半途

得疾先後歿于江戸事勒在墓碑同行栗田九

郎右衛門還報焉闔邑聞之莫不慟哭云嗚呼

可謂殺身成義也爾来霜華方一百頃日郷人胥

謀修薦事併建一石千山麓題日義人碑葢欲追

憶其死傳其績于後世也

 昭和六年歳次辛末孟春三月 禅憧現住實宗師碑面題字

            瑞龍禅寺苾 天眞謹撰併書

碑文の解読

 文政の(うち)栗原山の北堺を(おか)さるるの事有り。里人(りじん)臼井利之・栗田光美等で起こして(立ち上がって)公に訴へ、曲直(きょくちょく)不正なことと正しいこと)を争ふ。(いま)だ其の功を半途にして見ざるに病を得て、前後して江戸に死す。事の次第は墓碑に刻まれている。同行の栗田九郎右衛門帰りて報ず。村人之を聞きて慟哭(どうこく)せざるはなり(悲しみ残念のあまり、声をあげて泣かない者はいない)と云う。嗚呼身を殺して義を成すと謂ふべきなり。爾来(それからのち)霜が(まさ)に多くの花が美しく咲いた様に降りる頃、郷人皆(はか)(せん)()を修し(とりおこなう)(あわ)せて一石を山麓に建て題して義人の碑と云ふ。(けだ)し(まさしく・確かに)其の死を追憶(過ぎ去ったことを思い出すこと)し、其の業績を後世に伝へんと欲するなり。

昭和六年(かのと)羊 初春三月 碑面の題字は禅憧現住實宗師

瑞龍寺苾蒭(ひつしゅ)(僧侶) 天眞和尚謹んで書く

 

(ぞう)()山(栗原山の山の神)五社巡り

 栗原の水利は、橋ケ町や中井野の水田は牧田川用水を利用している。栗原にとって水利は死活問題であった。このため江戸期寛政年間に、栗原山の谷に、溜池が作られた。この水源の守り神として祀られたと推察できる。大正期までは土用の頃の旱魃時に、雨乞いのため深夜に松明を掲げて八幡神社〜丸山神社〜(御嶽神社)〜市杵島神社〜中尾神社〜清御子神社の順に参拝した。この風習を八幡神社の小社祭に毎年行われている五社巡りとして今に伝えている。

 

 

栗原の神社

主祭神は 応神天皇を祀る八幡神社で摂末社祭典として()雑宮(ぞうのみや)神社 (きよ)御子(みこ)神社 中尾神社 丸山神社 (いち)杵島(きしま)神社 御嶽(みたけ)神社がある。
 

天慶五年九月(942年)創祀。朱雀天皇天慶五年九月創建にして栗原氏の崇敬厚し。境内には樹齢な約七百年の天然記念物の「いちいかし」樹ある。

当社の有する栗原は、4世紀頃から 柴原勝の姓を名乗る一族が支配していました。781年に栗原連を許されて右京にあって朝廷に仕へ以後この地に住み生活をしていました。

 その栗原の姓が地名となり現在に至っております。当社末社である清御子神社は、壬申の乱の際大海人皇子(天武天皇)が伊勢路より御進軍、当地を行在所とし、その時に美濃国従五位下、栗原の神に従五位上を賜った事により、天武天皇を祭神とする氏神社となり、栗原山麓に鎮座されました。

 その後生活基盤が平地に移ったことにより天慶5(942)9月現在の八幡神社を創建し、八幡神社を里宮、清御子神社を上宮として栗原の氏神社は崇敬されました。

 

                              

1 (きよ)御子(みこ)神社 (清御子古墳 円墳 在り)

  場所 清御子平山 祭神 天武天皇(40代)創建 慶雲二年九月(705年) 

  壬申の乱(672年)天智天皇の崩御(ほうぎょ)の後 大友皇子と大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)で

  日本古代最大の内乱戦争となり大海人皇子が伊勢路より御進軍当地にて行在所。

 

 

2 中尾神社   

nakao場所 中尾山 祭神 大山衹(おおやまつみの)神  由緒創建 不詳

注:イザナギ・イザナミの子神で、山の神

 

 

 

 

 

 

 

3 丸山神社    場所 権現山(ごんげんやま) 由緒創建 不詳 
 栗原神の存在
  901年 藤原時平(三代実録)に記述 祭神 栗原氏の祖神(鎌倉幕府の末1300年頃廃絶)

  創建貞観六年(864年)八月十五日

 

 

4 (いち)杵島(きしま)神社

場所 九十九坊  祭神 市杵島姫命 由緒創建 不詳 広島県厳島神社に由来

注:スサノオノ命が、姉のアマテラス大神に、行いについて誓われたときに生まれし神

 

 

5 御嶽(みたけ)神社
mitake場所 御嶽口  明治初年 御嶽本社より勧請(かんじょう)す。分霊のこと。

明治13420日に現在の場所に遷宮

 

 

 

 



 

 

 

 

6 神明(しんめい)神社
sinmeiji   場所 堀ノ内  祭神 (あま)(てらす)大神(おおかみ) 豊受姫(とようけひめ)

創建 永徳3年(1383年)916

   寛文2年(1662年)再建 (元は栗田七郎兵衛の屋敷)
注:イザナギノ尊が、ヨミノ国からかえって、ミソギをされととき、左の目から生まれし神

注:ワクムスビの神の子で、イザナギ・イザナミの二神の孫。五穀をつかさどる豊受姫神

 

 

 

 

 

 

7 八幡神社 

hatimanjpg場所 橋ケ町 祭神 応神天皇(15代)神功皇后の子

    創建 天慶5年(942年)9月 朱雀天皇(61代)のとき 

明治101月 村社となる

注:応神天皇(15 )は仲哀天皇(14)の第4皇子、母は神功皇后。在位中百済より わに 王仁等が来日、漢学論語を伝え、また縫工・織工・鍛工・船匠などが百済新羅から多数 帰化した。神功皇后は仲哀帝の皇后で朝鮮の新羅を征した。

注:八幡宮は弓矢の神で大分県の宇佐八幡宮を総本社として、全国2万余り分社があると言われている。

 

 

 

8 ()雑宮(ぞうのみや)神社

izoumiya場所 八幡神社境内 祭神 (たま)桂屋(かつらや)(ひめ)(いのち) 由緒創建 不詳  

外宮である豊受大神宮(衣食住の産業の守護神)に関係

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9 常夜灯

jyouyatou  清水から前川の中に、常夜灯がある。お灯明(とうみょう)さん

と呼ばれて親しまれている。伊勢の大神宮が祀られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

栗原のお寺   

saihouji1 西法寺 (家紋は葵の紋)

創建 1497年(明応6年) 初代 栗田順誓氏 

1542年(天文1110月)住僧 真宗に転ず
  注:栗原村は1627年から1770年まで徳川幕府直轄地のとき、
    当寺との関係があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

seinenji2 西念寺 

sainenji2 創建 1428年(応永348月)真言宗清浄院 

1477年(文明99月)住僧 教西 

真宗に転ず寺号を西念寺と改める。

 

 

 

 



 

 

 

 

 

tugenji2tugenji3 通玄寺

創建 1521年〜1528年(大永年間)天台宗の阿弥陀寺と称したが大永年間中期 住僧 法秀 真宗に転ず 1585年(天正13年)寺号を通玄寺と改める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 ()(しん)(あん) 

mosinnann創建 1703年(元禄166月)臨済宗伊勢国山田 正法寺の僧代雲 当地に来て創建

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5 清水(せいすい)寺 

 

 

 

 

 

seisuji1

創建 757年〜764年(天平宝字年間) 天台宗として
1247
年(宝治元年)清水寺梵鐘鋳造
(山中に数多く存在した僧坊中の一僧坊中で現在の清水寺の先蹤(せんしょう)をなすものであろう)
1490
年(延徳2年)天台宗 多芸七坊の一ケ寺として創建説あり
1492
年〜1501年(明応年間)天台宗より臨済宗に転ず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6 (りっ)(きょく)庵跡は りしょう寺  

risyouji平成29年から3年計画で大谷砂防堰堤等の改修事業が実施されることに伴い、御嶽神社下の砂防堰堤の北側斜面の平地に寺院跡と推定される遺跡が清水寺の近くで発見されました。明治初期には茅葺き屋根の本堂と庫裏を備えた「りしょう寺」というお寺があったそうです。別所方がお持ちの古文書には「九十九坊の一ケ寺として象鼻山栗棘庵は清水寺」とあります。また、栗原古墳群にある「G32T07022 栗棘庵跡 栗原 山林 中世」にもこの栗棘庵の名があり、時代が過ぎて「りっきょく」という言葉が「りしょう」と伝承の中で変化したと推測している。

注:参考文献「栗原山九十九坊 象鼻山別所寺の歴史を訪ねて」安福彦七著

注:写真は当時の発掘調査風景(古川様から使用許諾済)

 

 

7 三昧(さんまい)の阿弥陀堂

amidadou三昧には大正六年に再建された阿弥陀堂がある。近くには火葬場(今は取り壊されてない)や六地蔵さんが古くからある。多良にあった古いお寺の古木を使い阿弥陀堂に建て直された。お堂の中には、御厨子があり、その中には阿弥陀様が安置されている。この仏は比叡山で修業したことのある恵心僧都の作と伝えられている。

 

 

 

 

8 馬頭観音堂

batoukannou 三昧入り口の義人碑の横に、馬頭観音さんのお堂がある。昭和27815日に、牛馬の安全を祈願して建らてれた。最初は血取り場の横にあったが、昭和30年後半には、牛馬が農耕用に使われなくなり、観音さんの存在も忘れがちになった。これではということでお墓に参る人が必ず通る今の位置に移転された。三昧祭りに立て垂れる長のぼりは、この時期に作られたものである。

 

 

 

栗原の小学校 (垂井町史と養老町史の通史編を参考にして記述)

  

 明治5年 学制発布により省成義校設立

明治6年5月 省成学校設置 教員3人 男子43人 女子27人 授業料30厘。

明治18年 室原村の原生学校と合併し、両原小学校と改称。授業料 中等科月5銭 初等科月1銭。

明治223月 両原小学校を改め、栗原簡易科小学校と室原簡易科小学校と改称。

明治26年 新小学校令実施により、4ケ年の栗原尋常小学校と室原尋常小学校を設置。

明治304月 両村合併して合原村となり、333月校舎を建て、合原尋常小学校と改称。

明治34年 高等科2年を設置し、合原尋常高等小学校と改称。

明治414月 小学校令の改正により従来の高等科第1学年を、尋常科5学年と改称。高等科第2学年は旧令により存続。

明治42年 尋常科4年旧高等科2年を廃止。尋常科6学年と東に増築した校舎に高等科2学年を設置。

高等科授業料月15

明治43年 113日 校舎増築の落成式を挙行。

大正5年 合原村立農業補習学校を付設。大正11年に教育機関として施設要項並びに準則が制定。

大正154月 合原村立青年訓練所が開設。

昭和103月 合原村立青年学校が男子5年制、女子2年制設置され、農業補習学校と青年訓練所は廃止。

昭和85月 少年団発団式挙行。

昭和14年 青年学校は義務となり、12歳以上20歳以下で他の学校に籍の無い者はすべて入学。

昭和164月 国民学校令により、合原国民学校と改称。

昭和21年 教育改革により合原小学校6年生と新制中学校3年制(日吉と合原組合)が合日中学校として新設。

昭和22年 合日中学校を廃止して不破中学校組合へ加入し不破中学校へ入学。

昭和27年 合原村教育委員会設置。

昭和29121日 町村合併により、栗原は垂井町に、室原は分村して養老町へ合併。

          室原は養老町立日吉小学校へ統合。

昭和3041日 栗原の小学生は従来の合原小学校へ、室原の小学生はすべて日吉小学校へ転校。 

注 写真は昭和5年(1930年)の校舎(合原小学校から使用許諾済)

 

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栗原耕地整理・整田碑

seidenhi2  耕地整理は、明治43年から綾戸・宮代地区で始まった。宮代地区は工費9万円で大正9年に完成した。表佐地区では明治44年に着手し、大正14年に完成した。

栗原では明治453月末に耕地整理組合を設立して池・沼・堀潰れなどを畑土で埋立て、原野を開墾して耕地にして、畑や林地を水田に地目変換した。また、相川の上流の川底にマンボを設けて灌漑用水とした。

工事費は河川改修を含めて5万円余りを要して大正5年に完成した。この経費は十年賦で償還された。投資実績は17万四千也。(大正の初め酒1升20銭だったので今は約1万倍)

この地区の字名をすべて「大正」に統一された。

 地区民はこの耕地整理を記念して整田碑を建立して祝福した。この事業の時、土砂運搬などの際には「トロッコ」を使用した。この当時トロッコは珍しく地区民も初めて見る人も多かったと言われている。

注 この碑文には「此業能樹立栗原区百年之大計足」とある。

注 写真は大正144月に建立された八幡神社内の栗原整田碑と祝福している耕地整理組合員等

 

 

 

 

 

栗原整田碑文

不破郡合原村栗原區西背中山東北沿泥川地勢高低不

一致其高者苦旱魃低者患水澇而肥脊錯雑耕作不便區

民常以為憂焉于茲有志者胥謀創立耕地整理組合者明

治四十五年四月得官詳栗田粂四郎等為之主以起工即

築堤以防泥川之汎濫南導牧田川水北利井壺川流以共

灌漑之用修道路溝洫平均高低截長補短畫以為井大

正五年八月竣工田界整水旱之害得而除卑濕之地変

成良田収蒦倍蓯擧區受其惠焉大正十一年三月査籔地

價事完了投資實拾七萬四千金矣嗚呼此業能樹立栗原

區百年之大計足使區民各得安堵従其業而了孫亦永浴

餘澤甚功豈不偉哉依刻貞a以傳不朽而

大正十一年四月 岐阜縣不破郡長従七位勲七等 加藤虎雄 撰弁書

 

 

 

 

栗原整田碑文の解読               

 不破郡合原村栗原区の西にある山から東北にある泥川沿いの土地の高低さは一致していない。その高い土地の者は旱魃に苦しみ、低い土地の者は冠水に苦しんで、しかも、肥えている所と痩(瘠)せている所が入り混っていて耕作に不便をして区民は常にこのことを、嘆きの種としている。ここに有志の者が集まって耕地整理組合を創立することを計画した。

明治四十四年四月公に認可され、栗田粂四郎等所有者の土地を詳しく調べる(土地の調査をする)。起工をもってすぐに泥川の氾濫を防ぐ堤を築き、南は牧田川の水を導入し、北は井壺川にうまく流れるようにする。一緒に灌漑用に道路を修理し、高低差を平均にする水路を掘り、圃場の大きいものは切り、小さいものは補って碁盤の目のように企画する。

大正五年八月工事が完成し、田の境界を整えそろえて、洪水や旱魃の被害と低い湿地を害の両方共なくすことができ、良田に成り変わり、収穫は倍増し、区を挙げてその恵みを受ける。

大正十一年三月地価を厳しく調べて耕地整理は完了する。投資は実に十七万四千金である。

ああ、此の事業は栗原区百年の大計(百年もかかると思われた大規模な計画)を能く樹立(成し遂げる)し、区民各々に安堵させるに十分である(区民は各々安堵を得た)。

この事業により、子孫もまた永く余澤(先人が残した惠み)を受ける。この甚大な功績はどうして偉業でないと言えようか、否、偉大な事業である。依ってこのまっすぐな美しい赤い石に刻み、後世まで永く伝えるのである。

 

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栗原踊り(にわか踊り)と白河踊り

毎年9月の第3月曜日(敬老の日の祭日)の夜に 栗原踊りが行われている。

  この踊りの起源ははっきりしていないが、古老の話では、江戸時代後期にはあったと伝えられている。この踊りは、農村地帯における五穀豊穣、家内安全を願いつつ、氏神の境内で踊られている。
また、変装した「にわか」が繰出されることから、この踊りを「にわか踊り」とも言われている。太鼓・音頭・お囃子にあわせた輪踊りである。

また、昔から踊りの締めくくりとして、しらかわ踊りを踊って終る習しとなっていたが、その由来が次の出来事からです。

「大垣藩兵が新政府軍に加わり、陸奥白河に布陣した奥羽越列藩同盟の反政府軍を破った。これが1868年1月から戊辰戦争のうち5月の北越戦争の出来事です。

以来、三か月半の長期にわたり、ここ白河に滞在した大垣藩の兵士達はその間に昔からこの地に伝えられた白川踊りを習得したのであった。その踊りは、鐘・太鼓を打ち鳴らして舞う豊年祈願と農耕慰労の盆踊りであったが、白河で戦死した犠牲者の慰霊と兵士自身の慰労も兼ねるものとなった。その後大垣藩兵は、郷里に帰ってから盆になると、大垣公園の広場でこの踊りを踊り続けてきた。」白河踊りの由来が戊辰戦争の地福島県白河市から来ていたとは驚きです。

参考文献:垂井の文化財1995年発行から

 

 

冊子「不破の地名」から*・・・*まで引用(平成296月許諾)

栗原の地名

栗原氏の祖は、『続日本紀第三六巻』天応元年(781)七月癸酉(みづのととり)にある記事のから

 

続日本紀・光仁天皇・天応元年条(781)には、

「右京の人・柴原(しばはら)(すぐり)()(きみ)が、『吾らの先祖のイカツオミは中臣氏の遠祖・アメノミナカヌシの二十世の孫です。イカツオミが神功皇后の御代に百済に使いしたとき、百済の女を娶って二人男子を生みました。その後、彼らがわが国に帰化し、美濃国不破郡に土地を賜って居住し“柴原勝”の姓を負いました。先祖の関係で、“中臣栗原連”の氏姓を賜りますよう、お願いいたします』と言上した。子公ら男女18人に“中臣栗原連”の姓を賜った。また、村名も栗原村となる。」(大意)
とある。

*ここ引用開始

 昔 昔、千二百三十余年も前のこと。

柴原勝子公は、天子の前でうやうやしく、頭を下げていた。御簾(みす)のむこうの高座に、やんごとなきお方の人影がある。御簾の前に太政大臣が、おごそかに天子にとりついだ。

「正六位上、柴原勝子公が、奏請(そうせい)天皇に申し上げて、その決定を求めること)に参内しました。伏して乞いらくは(相手にしてもらいたいことを頼む)、中臣栗原連の(かばね)をこうむり給わんとのことであります。」

 紫の朝服姿の子公は、袖で(しゃく)をもち、腰を二つに折って、深く平伏した。

 御簾の中の天子は、まだ当年、即位されたばかりの桓武天皇である。天応元年、七八一年、七月の十六日であった。太政大臣は、子公の顔をちらっとみて、まばたきをして奏上をうながした。子公は、あらかじめ教えられたとおり、ややうつむきかげのまま、崇重なおももちで言上した。

「ただいま、おおいまつりごとのおおまえつぎみ(太政大臣)がもうされました柴原勝子公でございます。私たちの先祖は、伊賀(いが)()(のおみ)であります。伊賀都臣は、中臣のはるかなる祖先、(あめの)満中(みなかの)(ぬしの)(みこと)の二十世の子孫にあたる()()()()()の子であります。伊賀都臣は神功皇后の御代に、百済に使いしたとき、その(くに)(むすめ)をめとり、男の子をもうけました。日本(やまとの)大臣(おおおみ)ともうします。」

 子公はここで、一息ついだ。額に汗がふき出ている。

「この子は、成人して、父の国を訪ね、聖朝に帰ってきたのであります。そして、美濃国不破郡柴原の地と、柴原勝の(かばね)を賜り、今日までそこに本貫(本籍)をおいてまいりました。

 けだし、私たちはもともとから、まぎれもない日の本の名家、中臣連の子孫であります。漢人(あやびと)や百済人が、天子さまからいただく(すぐり)ではないのです。今まで、まわりの者も、私たちも柴原勝の姓にあまんじてきましたが、中臣連の姓を賜りとう存じます。

 なお、柴原の地は、いま、すばらしい栗原にかわり、不破の栗は調副物(ちょうのそわもの)となっております。かつて壬申の乱の折には、縁起のよい勝栗として天武天皇に献上し、万余の兵士に勇気を与えたといいます。

 かしこみ、かしこみ、もうしあげます。ぜひ、私たち一統の男女十八人に、中臣栗原連の性を賜りとう、伏して乞いたてまつります。」

 子公は、大臣の教えをうけ、稽古を重ねてきたとおり奏上した。思ったより上手に言えた。吾ながら切々たる実感がこもっていた。天子は、御簾のむこうから、ひとことゆっくりと声をかけた。

「中臣栗原連とか、なかなかよい姓(かばね)じゃ。せいぜい、朕のために精励せよ。」

「は、はい、ありがとう存じまする。」

 栗原連子公は、ふかぶかと頭をさげ、そのままの形であとひざりして退出した。それで儀式はおわりであった。

 太政大臣の話は、すでについていたのである。天子のおことばは、日の本の歴史に記(しる)される最終決定の儀式であった。

 この日のことは、『(しょく)日本紀』という(りつ)(こく)史に、詳しく記されている。

『続日本紀』は『日本書紀』の続編として、その後百年間を四十巻にまとめている。

こうして栗原の地名がうまれたのである。

 その後、天子から中臣栗原連の姓をもらった子公は、6年あとの786年には、従五位下にすすみ、789年には皇太后崩御の葬儀委員長である御葬司(おんぞうし)になっていると、『続日本紀』に記している。

*引用終了

 注:『続日本紀』に栗原連子公とあるのは、後に出版された本による。

 注:中臣栗原連の子公の死後35年あとの『新撰(しんせん)(しょう)氏録(じろく)』の中では中臣栗原連は「どうもはっきりしない」と雑姓の中へ入れてしまっている。

 注:朝廷における世襲的地位を示すのが姓であり、位の高い順に(おみ)(むらじ)(きみ)(わけ)(あたえ)(みやっこ)(おびと)(ふみと)(あがた)(ぬし)村主(すぐり)がある。

 

 

追加記入:東大阪市吉原栗原神社

祭神

今の祭神は、中臣(なかとみ)(いかつ)大臣(おおおみ)(みこと)(以下イカツオミという)と思われる。
イカツオミとは、中臣氏の祖・アメノコヤネ11代の後裔で、当社の(さいし)(神や祖先を祀ること)氏族とされる“中臣栗原連”の祖先という(中臣氏系図)。

中臣栗原連とは、新撰姓氏禄・右京未定雑姓に
 「中臣栗原連 天児屋根命十一世孫雷大臣之後也」
とある氏族。ただ、姓氏禄の河内国神別には、中臣系氏族9氏を記すが、中臣栗原連はみえない。
 これらからみると、当社の祭神・イカツオミとアメノコヤネは祭祀氏族・中臣栗原連の祖神ということになるが、中臣栗原連は、姓氏禄では未定雑姓に区分され、その出自に疑問がもたれていること、また続日本紀には百済から帰化した氏族で、姓・連を賜る以前は勝とすることなどからみると、渡来系氏族とも推測され(スグリの姓は渡来系に多い)、その氏族が何らかの関係で中臣氏の傘下に入り、アメノコヤネ・イカツオミを祖神としたとも考えられる。また寡聞(かぶん)にして、当地に中臣栗原氏が居住したとの資料はみあたらない

 

 

 

 

 

 

 

清御子平(きよみこたいら)

*引用開始

kiyomiko2昔、昔、千三百年の昔。不破の関ケ原で天下分け目の戦があった。大友、大海人の二人の皇子が、天皇の位をめぐって激しくあらそい、たくさんの血を流した。

 大海人皇子は皇太子を大友皇子に譲って、吉野で僧となった。しかし、大友皇子の方はそれを信ずることができなくて、大海人皇子を滅ぼそうとしていくさとなった。『日本書紀』や『宇治拾遺物語』など、大海人皇子を清らかな心の、強い御子に描いている。

 大海人皇子は吉野から桑名へでて、栗原を通って関ヶ原へ向かった。栗原で休憩されたとき、村人たちは栗原の勝栗を献上して励ました。

 幸い大海人皇子は連戦連勝して天武天皇となったが、わずか十年ほどで亡くなった。

 栗原の人びとは、この行在所あとに清らかで強い大海人の御子をたたえて清御子神社を建て、そこを清御子平というようになった。

 あるいはこの天皇の皇居は、飛鳥の(きよ)見原(みはら)にあったので、それにあやかって浄見平から、清御子平に変わったかも知れない。

*引用終了

 

 

 

 

(きよ)御子(みこ)神社 (清御子古墳 円墳 在り)

  場所 清御子平山 祭神 天武天皇(40代)創建 慶雲二年九月(705年) 

  壬申の乱(672年)天智天皇の崩御(ほうぎょ)の後 大友皇子と大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)で

  日本古代最大の内乱戦争となり大海人皇子が伊勢路より御進軍当地にて行在所。

 

 八幡神社 

jinnjya1jpg場所 橋ケ町 祭神 応神天皇(15代)神功皇后の子

(平安時代)

創建 天慶5年(942年)9月 朱雀天皇(61代)のとき 

明治101月に村社となる

 

注:942年八幡神社が創建され、応神天皇を祀ってから、清御子神社は山の中で祀る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橋ケ町(はしがまち)

*引用開始

99gou昔、昔、千年もの大昔。栗原山のふもとは、大変にぎわっていた。山には九十九坊というたいそうなお寺があって、その間を坊の街道という山道が通っていた。

 その街道をくだると仁王門があり、そのそばに高い欄干をもつ朱塗りの美しい精進橋があって、その橋のたもとが橋ケ町であった。

 山づたいには、禾丸(のぎまる)、榎木町、横丁と、街がひろがっていた。橋ケ町の真ん中を走っているのは、花街道で、その脇に阿弥陀寺があった。線香を売る店からは、香のにおいがただよっていた。仏具を売る店、供え物や、暮らしのものなどを売る店がにぎわっていた。

「お茶をいっぷく、いただきましょう。ほれ、そこのまんじゅうも。」

「ああ、ありがとうございます。旅の坊様。」

まんじゅうを売っている店をのぞいた澄海僧正は、店先の床几(しょうぎ)に腰をおろし、あったかいお茶をすすった。

「南には養老山、北には伊吹につらなる大滝山、そしてみやこの後ろには、美しい美濃の中山、その前にずっとひろがる濃尾の大平野。みかどのおすまいになる内裏を、この橋ケ町あたりとすれば、南北の山麓までみやこにできる。両脇には、清流の相川と牧田川・・・。」

 僧正は、みかどのいいつけで、新しいみやこをつくるところを見にきたのである。橋ケ町のむこうには、山のみどりの木々の間からいくつもの寺の屋根が見え隠れしている。

「九十九坊か。・・・ようし、さすがにみやこで栗原連が、栗山京のことを強くおしているのも無理はない。とてもいいところだ。」

 澄海僧正は、奈良のみやこへ帰って、頭に描いた栗原京のことをみかどに報告した。栗原連は、栗原に本貫(原籍)をおき、右京につとめる高級役人である。みやこの案はついに二つにしぼられた。美濃国の栗原京は澄海僧正が、(やま)(しろの)(くに)の宇太京は和気清麻呂が強くおして、また何日も話しあいがつづいた。

 両方とも自分の考えをいいはって、なかなか決まらない。みかどは、それをごらんになって、あっさりといわれたそうだ。

「栗原にはお寺が九十九、宇太には百あるそうじゃな。それじゃ、宇太にしょう」と

こうして片田舎の宇太に、にわかにみやこづくりがすすめられ、ついに奈良のみやこよりずーんと大きい京のみやことなった。そして千年をこえて一大都市として栄えた。

一方、栗原京の夢は、あんなに賑わっていた橋ケ町や、九十九坊と共に、幻のように消えていった。

*引用終了

注: 784年桓武天皇が長岡に新都長岡京を造営するも遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けていたので、和気清麻呂は794年山背国の宇太の地に遷都を進言している。これを平安京という。

694年飛鳥京から藤原京へ遷都以後 710年に平城京 740年に恭仁京、744年に難波京、注:遷都の遍歴

 

745年に紫香楽京、同じ年745年にまた平城京、784年に長岡京に、794年に平安京

 

 

 

 

九十九坊

鎌倉時代建仁二年(1202)将軍源頼家の時「美濃国不破郡栗原村久保寺双寺中百余坊争動を起こす」ことから

*引用開始

99bpu2jpg昔 昔、八百年ほど前のことである。鎌倉幕府ができ、武士の世の中になって、十年目であった。

美濃の国象鼻山の九十九坊はゆれていた。

「さて、いかがなされた。いつまで考えておられるか。」

 長い沈黙を破ったのは、低くしわがれた声である。

「時は流れてござる。もう公家の時代は終わり、新しい武士の世の中でござる。迷われるに及ばぬ。鎌倉殿にお味方あれ。」

 声の主は、有無を言わせぬ口調で、迫っている。鎌倉二代将軍、源頼家からの使者、黒田次郎(まさ)(よし)である。真与は、幕府の高官、源(まさ)(うじ)の三男である。

  ここ象鼻山頂の舞台殿には、九十九坊の高僧たちや僧兵姿の長老たち、それに栗原郷の荘官たちが頭を寄せ合っていた。その正面に鎧姿の真与が身を乗り出している。

「このたびの騒動のことは、まはや鎌倉殿も知っておられる。古くからのこの双寺、灰にするか、後世に残すか。二者択一ぞ。さ、さ、さあ。ご返答あれ」

 幕府の使者といっても、それは鎮圧軍である。甲冑に身をかためた騎馬武者数十騎が、山のふもとで、今や遅しと返事を待っている。返事次第では、幕府に反対する僧坊は、またたくまに火炎につつまれ、指導者たちは血祭にあげられるであろう。

 ことの始まりは、四百年つづいた平安の世にとどめをさした源頼朝の死であった。頼朝は京の公家から政権を奪い、武士たちによって鎌倉幕府を開いた男である。幕府憎しの京の公家たちは、こ踊りして喜んだ。今こそ、幕府を倒す絶好のチャンスである。

 院政をしていた後鳥羽上皇は、朝廷に支持する社寺や、地方の武士たちに、幕府に反乱を起こすように呼びかけた。今まで、朝廷と親しい関係にあった栗原の九十九坊にも、激が飛ばされた。

「往古から、朝廷に援けられ、守られて、栄えてきた久保寺双寺であるぞ。今こそ、久保寺を中心に、全山百坊力をあわせて立ち上がれ。南都北嶺の僧坊とともに。心して院の下知を待て!」

99bou3 この知らせに、象鼻山九十九坊は、一挙に騒然となった。南都北嶺の僧坊とは、奈良の都や比叡山の寺である。それぞれに大勢の僧兵をかかえ、武士団とつながりを持っていた。

 それにしても、鎌倉の対応は早かった。久保寺双寺九十九坊反乱のニュースが鎌倉に届くが早いか、すぐに折り返し黒田真与を双寺の重役として、ふところ深く乗り込ませたのである。

「かくなる上は、山がとるべき道は貴殿の申される他にあらず。」

久保寺双寺の長老が、悲鳴ともうめきともとれぬ声をもらした。喉元をしっかりとおさえた関東武士、黒田真与に軍配があがったのである。反乱を呼びかけた後鳥羽上皇の檄(げき)は、この九十九坊のように、いたるところで不発に終わっている。

しかし、後鳥羽上皇をはじめ京の公家たちは、折あらば幕府を倒そうと、虎視眈々としていた。そしてついに、その時がきた。1221年の承久の乱である。

後鳥羽上皇は、1万七千の軍をひきいて、不破の関あたりに陣をしいた。だが、幕府軍はその十倍の十九万の軍勢をもって、西美濃いったいでこれを迎えうち、一方的な大勝利をおさめたのである。承久三年六月六日であった。七日には、東海道や東山道から、京の都へ上っていく幕府の大軍は、すべて美濃の国不破郡へ集まった。そして、垂井や野上を中心に、全軍に散らばって宿営した。いよいよ、京への総攻撃をどのようにかけるか、ここで最後の作戦を練ったのである。

このあたりの戦記については、『吾妻鑑』や『承久記』に詳しく書いてある。後鳥羽上皇は、ついにこの戦に敗れ、地の果てともいえる島根県の隠岐の孤島に流され、そこで亡くなっている。

 さて、九十九坊を幕府に味方させた黒田次郎真与から10代目の黒田三七郎源正常(まさつね)のときである。承久の乱から百年あまりたった1335年の5月18日であった。後醍醐天皇をはじめとする公家に味方する新田義貞が、室町幕府を開いた足利尊氏を攻めたとき、幕府軍の兵火によって、久保寺双寺九十九坊がことごとく焼失した。

 それからに二百年後の1545年、久保寺次郎兵衛源時久は十三代将軍義輝に、後世のため九十九坊の由来を書き残したのである。『天文の文書』というが東京空襲で焼失。写しだけが残っている。

*引用終了

黒田次郎真与(以下は「橋爪の歴史」村上喜代志著 平成410月発行から引用)

59代宇多天皇の皇子敦実親王一品式部卿より9代の後胤佐々木太郎検非違使左衛門少尉6男の黒田右近少輔源直氏の3男が真与であるという。

父の直氏は越前回(福井県)中島城主であったが、建仁2年(1202) 別所寺内で騒動 が起こり、その鎮撫を鎌倉二代将軍頼家に命ぜられ、真与を派遣した。

真与は軍勢を以て騒動を収めると、別所寺の支配役として居住するようになり、彼の 子孫も代々別所寺(後の久保寺双寺)を支配した。鎮守白山神社を創建したのも真与と思 われる。

注:久保寺は公方の寺を転じた言い方、即ち公方に因縁のある寺の意味か。双寺は中堂その他の佛堂と住房と並び存ぜし寺の意味か。

 

引用文献:「ふるさとものがたり 不破の地名」不破郡教育振興会 昭和6312月発行

 

木下藤吉郎 竹中半兵衛の隠居を訪れる

 

美濃国不破郡栗原の里は表佐の郷の南、南宮山の北にあつた小丘に粗末な藁葺小屋を建て、瀟洒(しょうしゃ)すっきりとあか抜けしているさま)な竹垣をめぐらして稀代の軍師竹中半兵衛重治は閑日月(ひまな月日)を楽しんでいた。彼の器量と武名は先に単身稲葉山へ乗り込んで手も濡らさず乗っ取り主君義龍に捧げた頃から俄然国中は言うに及ばず隣国へも鳴り響いていたのであった。

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 春の日も早や暮れ近く過ぎて薄やみの中を雑木に交じる梅がふくふくたる(よい香りが漂っているさま)匂いを流す頃、表の方に鈴の音が聞こえて来ると直ぐに()折戸近く、丈低い鼠木綿の頭巾に同じ布子の上に墨染の衣を着た旅僧が一人、手に(しゃく)(じょう)遊行が携帯する道具の一つであるを突いて立った。

『御免下されー』

『待ついらせられ』

勤番の者はこう旅僧に呼びかけた。

『私は尾州中村、光明院の僧でござるが、この暮れに難儀を致しているものでござる、何卒今宵一夜のお宿をお貸しくだされい』

 やがて勤番の者の姿は主君に取り次ぐために奥深く消えていったが直ぐに、

『は、お宿申しまする、今夜は前殿の御逮夜でござりますれば何卒これへお入りなされませ』

『かたじけのうござる』

 旅僧はこ従とに伴われて奥へ行ったが、やがて仏間で読経を始めたのである。

日輪は全く没して、南宮山の彼方からおぼろ月が昇る頃まで奥の方には読経の声が聞こえ、鐘の音は冴えに冴えて流れていた。

 勧行もようやく終わった頃こ従は修験者に言って、

『主人半兵衛、お目にかかります』

『かたじけのうござる』

 旅僧はすぐに別間に於いて竹中半兵衛と対面した。

『貴贈は何れから参られたな』

『尾州一の宮から参り申した』

『尾州は織田殿の御領地じや、彼処には仁政(恵み深い、思いやりのある政治)が布かれてあると言う

『如何にも信長殿に古今の名将、人々は枕を高く寝る事が出来申す』

 二人の会話はこの辺りから武術兵談に移ってきた。

『斉藤龍興殿は義龍殿には似ぬ不肖の物ぢや、不仁の行いのみ多いと聞くが稲葉山落城の日も近きにあらう』

『何と申さるる』

『それに引きかえへて尾州の大守織田信長殿に仁勇(人は徳と勇気をもって世のため人のために尽くすべし)にして大度ある御大将、主君として選ぶにはかくの如き人が何よりぢや、愚僧も行って仕えんと存ずるが、貴殿も浪々の身なら参られてはいかがでござるな』

 修験者の目には鋭くも、半兵衛の面を射た。

『龍興殿如き主君とは雲泥の相違、彼処は泰山にいるも同然ぢやが、彼処は礎動ければ城櫓も倒れて来る、美濃楠も根から折れよう』

『待て、先刻より黙って居れば主君龍興殿に悪口雑言、無礼であろう』

 半兵衛は声を荒げたが、修験者の声は平然としている。

『無礼とは何が無礼、これは偽りでもない誠の事を申すまで、偽りなら知らぬ事、誠を申して無礼等とは受け取り難い』

『その弁舌と言い、先刻よりの軍談と言い、未だ面は知らぬが信長の家臣木下藤吉郎に似たこの方の面差し、我らを説いて信長に下らしめようとする上は、藤吉郎に相違あるまい』

この言葉を聞くや否や修験者はにっこりと笑った。

『いかにも拙者は木下藤吉郎ぢや』

『うむ、さては』

『貴殿は王佐(主君を助ける補佐役)の才を抱きながら、父を殺し君を弑(しい:目上の者を殺す)する斎藤に仕える上に、諫言は用いられず計略は取られずして埋もれ木同然に朽ちはつるは武士と生まれた本懐ではござるまい、それと異なり信長公は貴殿の大名を慕われてござれば、この際暗々たる斎藤を捨てて、明々たる織田信長公を助け父租(ふそ)の名を挙げ給う心はないか』

 半兵衛、黙然として首を垂れた。

『果たして織田家には功業の木、盛んにして、良臣が集まってござるが斎藤家には亡国の象現れて亡びる事旦夕(短い時間)に迫ってござる。何卒信長公をお助け下さる訳には参らぬか』

 藤吉郎の面には熱誠が溢れ出た。

『それは藤吉郎の願いとしては、幼少より卑賤にして一度も師によって学ぶ事もござらぬが若し拙者の言葉の如く州股に参られたら、拙者の師父として教えて下され、藤吉郎の願いはこれでござる』

 口を酢うして藤吉郎は弁じて立てたが流石に半兵衛の口は一文字に閉ざされたまま、唯聞くばかりで承諾の答えはなかった。

 言うだけ言って仕舞うと藤吉郎は立ち上がって、

『ではお考え下され、拙者の言葉は早やこれまで、さらばでござる』

と表へ出た。玄関まで出た半兵衛は、

『御言葉はかたじけのうござった。半兵衛、お禮を申す』

 藤吉郎は勤番の者に目をつけて、

『では又お目にかかる事があろうも知れぬ、今宵は足の行く所に宿るとしよう、さらば、南無阿弥陀仏、々々々々』

 と鉦(かね)を叩いて去って行った。

藤吉郎の言葉は池に投げられた石の如く半兵衛の胸の隅々へまで波紋を伝えて行った。

 その翌朝になると大澤治郎左衛門(宇留間=鵜沼の城主)が又彼を訪れて説いた。

『斯く言う次郎左衛門も信長公に帰降申した

 この驚報(きょうほう)は更に半兵衛の肺腑(はいふ)を突いて彼は考慮せねばならなくなった。

 遂に翌々日、半兵衛は変装までして彼を諭(すす)めた木下藤吉郎に誠を感じて信長の幕下に就いた。

参考文献:豊臣秀吉 碧瑠璃園 著 一書堂書店 (大正14年)

 

 

 

参考文献 

1 不破郡史(上) 不破郡教育会 大正14年 発行

不破郡史(下) 不破郡教育会 昭和 2年 発行

2 垂井町史 通史編 昭和44年 発行

3 新修 垂井町史 平成8年 2月 発行

4 竹中半兵衛隠居の栗原城址 第1回調査報告書 平成44月岐阜県文化財保護協会 林 春樹

5 軍師 竹中半兵衛重治公 パンフレット 垂井町観光協会 発行

6 栗原のれきし  栗原村在中 水野金吾 著  平成9911日 発行

7 竹中家墓所図作成 鏡味正義 垂井の文化財:垂井町文化財保護協会発行

8 竹中半兵衛のすべて 池内昭一 編 新人物往来社 1996215日発行

9 竹中氏系図は岩手街角ガイド資料から

10 栗原地名地図は「不破の地名」昭和63年発行から

11 「橋爪の歴史」村上喜代志著 平成410月発行から

 

栗原史の年表

 

弥生時代に弥生土器出土と境野遺跡在り

古墳時代に栗原12号古墳存在

飛鳥時代

6726月 壬申の乱の折大海人皇子が吉野よりご進軍の際栗原山麓を行在地

705年 清御子神社創建

 

奈良時代

713年 44代元正天皇が養老行幸の際ご休憩時に冠を置かれた石と棟札在り

757年〜764年 多芸七坊の一ケ寺として天台宗清水寺を創建

781716日 柴原を本居としていた柴原勝、奏請して中臣栗原連と改賜

 

平安時代

9429月 八幡神社創建

 

鎌倉時代

1202年 九十九坊に騒動あり

1247年 九十九坊清水寺梵鐘の鋳造

 

南北朝時代

1335年 九十九坊は足利尊氏と新田義貞両氏の戦いで焼失

13839月 神明神社創建

 

室町時代

1428年 真言宗清浄院(後の西念寺)として創建 

1477年 住僧 教西 真宗に改宗し寺号を西念寺と改宗

1492年〜1501年 清水寺天台宗から臨済宗に改宗

1497年 栗田順誓氏西法寺を創建

室町時代末期に土豪栗原右衛尉義師(よしのり)が廃寺跡を利用して栗原山に築城

1521年〜1528年 天台宗の阿弥陀寺(後の通玄寺)を創建。大永年間中 住僧法秀 真宗に改宗

15258月 牧田合戦とは江州小谷城主浅井亮政と美濃国守護土岐頼芸の戦い

1542年 西法寺真宗に改宗

1565年 竹中半兵衛重治 栗原山に隠居

 

安土・桃山時代

1585年 阿弥陀寺を通玄寺として改寺

1589年 栗原村の太閤検地

16009月 関ケ原の戦いのとき長束正家・長曾我部盛親が栗原山山麓に陣

 

江戸時代

1602年から1612年まで高須藩初代藩主徳永寿(なが)(まさ)その後長男昌重が1627年まで領主

その後1770年まで徳川幕府直轄地その中で一時期1742年から1770年まではなぜか宮崎県の延岡藩2代目藩主牧野貞通氏

以後江戸時代最後の1867年は大垣藩戸田氏の預所

16282月 高須藩徳永昌重改易 栗原村幕府領

16472月 宮代村と栗原村水論

1662年 神明神社再建

1703年 臨済宗伊勢国山田 正法寺の僧代雲 茂森庵を創建

17979月 栗原村権現谷・中尾谷・清御子谷に溜池創設

18216月 宮代村と栗原村水論

 

明治

1868年(明治元年)御嶽本社から勧請して御嶽神社を創建

1873年(明治6年) 栗原村に省成学校設置

1876年(明治9年)栗原山全山にあった五輪塔・石仏を九十九坊に集めて弔う

1878年(明治11年)八幡神社を村社とする

1897年(明治30年) 合原村ができる

19123月(明治45年)栗原耕地整理組合設置

大正

19224月(大正11年) 栗原耕地整地完成

昭和

1931年(昭和6年) 栗原山義人碑建立       

 

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