2019 令和元年711

栗原山と竹中一族について

                           

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栗原山 九十九坊 史跡

  Takenaka_Shigeharu  

竹中半兵衛重治公(禅幢寺所蔵)

1 栗原山

IMG_matiaruki濃尾平野の西端、垂井町と大垣市上石津町との境に栗原山(標高235メートル)がある。栗原山の中腹および山麓一帯に、昔「九十九坊」と称する百余坊の寺院があったと伝わる。奈良朝の頃に既に多芸七坊の中に1ケ寺として「不破郡栗原山に天台山正覚院末寺久保寺双寺として九十九坊ありき」と天文年間の文書にある。鎌倉初期には百以上の僧坊が建ち並び相当隆盛であった。建武2年(1335)5月18日に足利尊氏と新田義貞両氏の戦いによって、伽藍は兵火にかかり悉く烏有に帰して廃墟となった。                         

室町時代末期・戦国期に土豪栗原右衛門尉義師(よしのり)が廃寺跡を利用して築いたのが栗原山城の創始であると伝わる。栗原氏は山中に館を構え斎藤義龍に仕える。この後、竹中半兵衛(注@、Aの3)の祖父重氏(注Aの1)の弟栗原加賀守(注Aの12)と子の栗原重好(注Aの13)、栗原右衛門尉重進(注Aの14)が住んでいただろう。1556年、斎藤道三とその子義龍が長良川の戦い(岐阜市上土居川原田)のとき、兄の重好は道三側に、弟の重進は義龍側に相分かれるがともに討ち死にする。(子孫と考える栗原加賀守盛清は、江戸初期には垂井地方で府中村の代官を務めている) その後、父重元(注Aの2)の弟、栗原重光(注Aの7)は岩手山城や栗原山城に住んでいたらしい。

 1564年2月、竹名半兵衛は、安藤伊賀守守就(半兵衛の義父)と計り、弟竹中重矩(注Aの6)とともに手勢十六人を率いて斉藤龍興の稲葉山城を乗っ取るが、8月頃、半兵衛は元の城主・龍興に稲葉山城を返還し、その責任を取って、弟重矩に家督を譲る。その後、近江の浅井長政に身を寄せ、菩提山城は従弟竹中重利(注Aの8)に託す。後に病気がちな半兵衛にとって、空気が良く、見晴らしの良い栗原山に閑居したことはこの地が療養に優れ、身辺の安全を考えて岩手に住まず栗原山に移り住んだと考える。さらに、竹中一族の屋敷があったことや眼前に稲葉城が眺められ、静養の地としては最適である。実際の場所は判明できないが、連理の榊か九十九坊あたりの曲輪と推測できる。

    

 

 

 

 

 

2 竹中重利と重定

長松城栗原重光の子に重利がいる。1579年重利は重治の領地の内、三千石を領する長松城にいた頃、重治は幼い嫡男重門(注Aの4)を残して亡くなる。すると、秀吉は重利を重門の後見人とし跡継ぎとする。そのため重利は秀吉に仕え、多くの戦に出陣し、1590年小田原攻めの時には馬廻組頭として参陣する。また、1594年に豊後国国東郡高田で一万三千石に加増されて大名となる。さらに、文禄・慶長の朝鮮出兵に従軍し、従五位下伊豆守に叙任する。このように、重利は初めから秀吉を主君とし仕えており、忠誠を尽くしていた。

 

 

栗原重光の次男に竹中貞右衛門重定(注Aの9)がいる。初め美濃国守護家の土岐氏に属するが、後に信長・秀吉に仕えた。159412月には摂津国嶋下・豊嶋、河内国河合、近江国栗太郡内より2230石を秀吉から与えられる。重定は安土桃山時代今の京都市伏見区竹中町にあった竹中屋敷(注B)に住み、その後伏見城の普請奉行にまでなる。

慶長五年(1600)9月の関ヶ原合戦では、重利は初め西軍に与して近江瀬田橋を警備し、丹後田辺城攻撃軍に加わるが、隣国の黒田如水を通じて東軍に転じ、福島正則の陣に入り西軍と戦い、所領を安堵される。慶長六年には徳川秀忠より加増を受け、豊後府内で20,000石を領するようになる。また、重定は関ケ原合戦のとき、徳川家康を通じて、重利と共に同じ東軍福島正則の陣に加わった。これにより、旧領を安堵される。処刑された娘のお長(注Aの10)と孫の土丸(注Aの11)への無念さを心に秘め、仕えていた秀吉から離れていき、合戦時は兄弟共々家康の東軍についている。

 

 

不破郡史からの長松城古図 竹中伊豆守屋敷がある)

 

 

 

 

 

 

 

さて、一つ気になることがある。竹中重利(源介)の生年である。垂井町史には「重利は永禄5年(1562年)に生まれ、初めは従兄弟半兵衛の領地の内、3,000石を領し長松に居城した。また、1564年半兵衛が稲葉城を奪取し、のちに城を斉藤龍輿に返還し、江州の浅井氏の下に去っている間は、源介は岩手にあってよく領地を守知恩院お墓った。」と書いてある。このときの源介の年齢は何と2、3歳となり余りにも不自然な年齢である。竹中家系図には「1558年、岩手弾正氏の旧領六千貫は竹中重元氏が支配し、そのうち三千石を甥の重利に与えた」。また、長松の支城は永禄元年〜天正初年(158873)に、竹中半兵衛重治から、同族の竹中重利に分地され長松城を築城するとある。さらに、重光には男子二人の兄弟があり、町史の記述によると、「源介は重光の子、重定は重光の次男として生まれる」とある。年齢と兄弟関係が合わない。以上の観点からも解せない。では、なぜ、このようになったか、古文書から亨禄5年(1532年)と元禄五年(1562年)の見間違いで、1532年生まれにすると、多くの史実とうまく合致してくると考える。

      

 

 

 

 

 

 

知恩院に祀られている竹中重定のお墓。(どれかは不明)

 

 

3 重定の娘お長

1578年、重定の子に長松城(城主は重利)の近くの綾野で生まれたお長がいる(美濃国諸家系譜)。

幼いころから、お長は京都の伏見城近くにある竹中屋敷で父親と一緒に住んでいただろう。159112月秀次が関白になり、尾張清州城から聚楽第に住むことになる。1593年に秀吉に秀頼が誕生すると、秀次の立場が変わり秀吉から疎まれるようになる。この頃に、秀次目付役の役割を担う端麗な女人が聚楽第に入り、折に触れ、秀吉へ秀次の日常を報告することになる。彼女たちは豊臣家と実家・主家を結ぶ重要な役目も担っている。1594年には重利は豊後国高田で13,000石の大名となっている。秀吉から目付役の女人を求められたとき、大名になった恩義から、重利は弟重定の娘、お長を推すことになる。また、半兵衛の妻の伯父安藤郷氏(兄は守就)の妻が、秀次付家老、山内一豊の姉(通)で、山内家と親戚になるため、一豊もお長の美しさと適確な判断能力に感心し、推薦した。お長が目付役を忠実に守ったこともあり、重定は同年十二月には摂津・河内・近江の領地一部分より2230石を秀吉から与えられる。

1595年2月1日に、秀次四男土丸の誕生のときは、竹中家一族は、関白豊臣家と繋ぐ深い関係が生じたことを喜び、優遇されることを期待する。しかし、7月秀次謀反事件があり、8月に秀吉から母子ともども処刑を言い渡される。一族にとって、無念の思いに耐えることになる。父重定は謹慎したが、秀吉は重利の忠誠心を認め、領地を安堵し、咎めなかった。また、山内一豊は、お長の方とは縁がないように装う。

処刑の様子が江戸時代の書本に辞世の句とともに残っている。『聚楽物語』(注C)の記述には「六番目には、御土丸と申せし若君の母上なり。是も白き装束に、墨染めの衣着て、物軽々しく出て給ふ。この方は禅の知識に御縁ありて、常々参学(仏教を学ぶ)に心をかけて、散る花落ちつるこの葉につけても、憂き世のあだにはかなきことを観じ給ひしが、この時もいささかも騒ぎ給ふ景色もなくて」とある。

 

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辞世の句

「うつつとは 更に思わぬ 世の中を 一夜の夢や 今覚めぬらん」 『聚楽物語』

口語訳 現実のこととは、決して思うことができない。この世の出来事はほんの一瞬の、一夜の夢のようです。その夢から今覚めたような気がいたします。

 

「とき知らぬ 花のあらしに さそわれて 残らぬ身とぞ なりにけるかな」『太閤記』

口語訳 季節を知らない風によって多くの花々が散ってゆきます。私もまた他の皆様方とともに、何も残          らない身の上となってしまいました。

 

「さかりなる こずえの花は 散りはてて 消えのこりける 世の中ぞ憂き」『太閤様軍記のうち』 

口語訳 満開だった桜が散り果てたように、栄華を誇った私達も落ちぶれました。残されていることは、辛いことだと思います。

 

 

 

 

 

 

(瑞泉寺所蔵にあるお長の御影)

 

 

 

 瑞泉寺

IMG_1093 『聚楽物語』『太閤記』『太閤様軍記のうち』にある処刑された秀次側室等の記述は、実家や主君・縁者の不名誉なことだと隠そうとし、素性をできる限り曖昧に表現している。共通するのは、徳川幕府下で生きる縁者等に配慮し、氏素性を分かりにくく記し、後世に彼女たちの生き様の詳細を残さないようにしていると思われる。江戸時代に読まれることを前提に徳川幕府に忖度しながら綴られているかのようである。いずれにしても、創作の部分があることになる。史実として分かることは文禄4年8月2日に京都三条河原にて、豊臣秀次の子5人と継室・側室・侍女・老女34人合わせて39人が、前日までに考えた辞世の句を詠みながら、何の罪のないまま惨い処刑をされたと言うことである。墓所は京都瑞泉寺で、法名の入った供    

 

 

 

 

 

 

 

養塔とともに祀られている(写真は京都瑞泉寺)  (写真は瑞泉寺にあるお長の供養塔)

 

 

 

 

4 まとめ

 室町時代末期・戦国期に栗原山に館を構え住んでいたのは、土豪栗原右衛門尉義師に始まり、竹中一族である栗原加賀守、その子重好・重進、栗原重光であると推定できる。さらに、重光の二人の子重利・重定、孫のお長などは親戚を頼りに栗原山を訪ねて来たこともあるだろう。半兵衛に至っては閑居の地としている。菩提山城・長松城・栗原山城に住む竹中一族は斉藤家・織田信長・豊臣秀吉・秀次、最後に徳川家と主君を変え、仕えることになった。美濃の屋敷に幼いころ住んでいたお長が、どうして、優雅で華麗な聚楽第に住み、関白秀次の側室になったのか、これで少なくとも分かってきた。また、調べていく中で、処刑された豊臣秀次の側室達三十四人は一体誰なのか、江戸時代発行の本によって、出自や辞世の和歌に違いがある。さらに、重利の生年について亨禄5年(1432年)か永禄5年(1562年)なのか30歳も違うという疑問が生じたので、今後これらの究明ができればと考えている。

 

    

余談

raberu現在、日本酒の銘柄で「松竹梅」のラベルに蔵付半兵衛酵母仕込と書いてある。どうして竹中半兵衛の名前があるかと不思議に思ったことがある。すると、裏のラベルには、「酒どころ伏見竹中町(注B)は安土桃山時代に軍師『竹中半兵衛』の一族の屋敷があったことに由来しており、松竹梅の蔵付き酵母はこの名軍師の名にちなんでいます」と書いてあった。実際は当時伏見城の近くに竹中屋敷があり、半兵衛が亡くなった後は貞右衛門重定一族が住んでいたことを考える

と貞右衛門酵母と名づけても良い。すると、栗原山に住んでいた竹中家一族の存在が大きくなったように思える。このような形で、後世まで半兵衛の名前が残っていると考えると感慨無量な気持ちとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

注@ 

永禄7年(1564)7月29日付で竹中半兵衛尉重虎の禁制「於当寺内、濫妨狼藉、陣取、放火伐執竹木、非分之族、一切不可有之候、若令違犯者、可有交名注進候、速可申付候、恐々 謹言」が岐阜市西壮の敬念寺に現存し、半兵衛は重虎と称している。そして、1570年6月織田信長の近江侵攻の際、長亭軒城(松尾山城)にいた樋口三郎右衛門を通じて浅井長政家臣堀次郎の調略に成功した。この頃に、重治と名を変えている。

 

注A 

1 祖父 竹中六郎左衛門重氏(重道)初めて竹中氏を名乗る (不詳)

2 父  竹中遠江守重元(彦三郎重基) 1497年〜1560年没 64

3 本人 竹中半兵衛尉重治 1544年〜1579年没 36

4 子  竹中丹後守重門(幼名 吉助・重政) 1573年〜1631年没 59

5 兄   竹中重行 1532年〜1570年没 39歳 同母の兄

6 弟   竹中重矩(幼名 久作・彦作 重隆)1546年〜1582年没 37

7 父の弟  竹中出羽守 栗原重光〜1574年没 

8 重光の子 竹中伊豆守重利(幼名 源介 重信・ 重義・隆重) 1532年〜1615年没 83歳 (竹中半兵衛のすべて 池内昭一編)(一説には1562年生) 大分市府内町 浄安寺に葬る。法名 逸峯玄俊春岩院(寛政重修諸家譜)

9 重光の子 竹中貞右衛門重定(幼名 五郎作)  1551年〜1610年没 60歳 
伏見城普請奉行 京都知恩院に葬る。法名 崇徳(寛政重修諸家譜)

10 重定の子 お長 1578年〜1595年没 18歳 京都瑞泉寺に葬る 法名 珠月院殿誓光大姉

11 お長の子 豊臣土丸 159521日〜1595年没 6か月 京都瑞泉寺に葬る 

法名 普現院殿済大童子

12 重道の弟 栗原加賀守 (年齢不詳)

13  加賀守の子 栗原加賀守重好 1500年〜1556年 56

14  加賀守の子 栗原右衛門尉重進 1503年〜1556年 53

 

 

takenakayasiki注B 

文禄3年(1594)の伏見城が完成した当時、大名屋敷が立ち並んだ城下町を載せた「豊公伏見城ノ地図」(製作者の一人に竹中貞右衛門がいる)に、京都市伏見区の郷土史家の藤林武さんが戦国大名の屋敷に家紋を入れて新たに作られた地図がある。この中に竹中貞右ヱ門の屋敷跡がある。

 

 

注C 

『聚楽物語』は、仮名草子(物語・小説的な作品)。作者不明。寛永年間(162444)の刊行。

『太閤記』は、儒学者小瀬甫庵にとって書かれたもので、初版は寛永3年(1626)。秀吉伝記を底本とされることが多いが、著者独自の史観がある。

『太閤様軍記のうち』は、太田牛一が記した秀吉の一代記。慶長15年(1610)前後に出版。

 

   竹中一族の家略系(重治からの続柄)

 

祖父   竹中重氏(重道・妻は市橋城主市橋右馬允:うめのしょう:の娘)初めて竹中姓

祖父の兄 岩手遠江守信忠

祖父の弟 栗原加賀守(栗原山住)

祖父の弟 松尾修理(源四郎 松尾山住)

祖父の弟 竹中重時(三郎左衛門・法覚)

祖父の姉妹 女子(安藤伊賀守守就の妻)

栗原加賀守の兄 栗原加賀守重好

栗原加賀守の兄 栗原右衛門尉重進

父  竹中重元(妻は杉山久左衛門の娘 妙海大姉) (彦三郎 重基)

父の 弟 彦七郎

父の弟  栗原重光(竹中出羽守)

父の兄弟 新八郎

父の姉  女子(夫は杉山内蔵助・竹中五右衛門)

父の姉   女子(夫は竹中家家臣 澤右京 不退寺)

父の姉妹 女子(三上 妻)

父の姉妹 女子(江崎 妻)

本人 竹中(半兵衛重治1563年に安藤伊賀守守就の娘・得月院を妻にする)

兄 竹中重行(久佐衛門 同母兄)

弟 竹中重矩(久作 重隆 本能寺の変後 表佐村にて討死)

弟  竹中与右衛門(大垣にて病死)

弟  竹中重友(彦八郎 本能寺の変 二条城で討死)

長女 (夫は安八郡禾森村 性顕寺和尚 浄了)

二女 妙正尼1595年没(夫は竹中伊豆守重利 明泉寺を再興

三女 (夫は不破河内守光治 離別 西福殿云う

四女 (夫は瀬田掃部または勢田掃部)

五女 (夫は大沢基康または 大沢主水)

嫡男 竹中重門(吉助・重政 丹後守)

重光の子 兄 竹中伊豆守重利(伊豆守)

(幼名 源介 重信・ 重義・隆重)

重光の子 弟 竹中貞右衛門重定(五郎作 周防守)

重定の子  お長(関白秀次の側室)

重定の孫  土丸(関白秀次の四男)

注:家系図は、参考文献を基に記載したが、まだ不十分で不確かな箇所があることをお許し下さい。

注:青字は岐阜関ケ原古戦場記念館の企画展「竹中半兵衛と重門」の冊子を読んで令和31027日に修正

参考文献 

1 新修 垂井町史 平成8年2月 発行

2 美濃国諸家系譜

3 竹中半兵衛隠居の栗原城址 第一回調査報告書

  平成4年4月 岐阜県文化財保護協会 林 春樹

4 竹中半兵衛のすべて 池内昭一著 新人物往来社   1996年発行

5 竹中半兵衛と黒田官兵衛 本山一城著 1988年 村田書店

6 豊臣秀次公と瑞泉寺 瑞泉寺発行 平成24

7 小説「秀次と殺された女 秀吉を怒らせた男 秀次」 作者 だぶんやぶんご

 

出典 この原稿は垂井の文化財2019(第43集)の掲載された拙者の文章を一部加筆したものです。

 

 

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