関ケ原合戦 参考資料

  関ヶ原合戦図屏風

永七年(1854)狩野梅春の原本を絵師翫月邸峩山が模写

(関ケ原町文化財に指定 関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵) 

 

第一部 関ヶ原合戦屏風解説

第二部 関ケ原合戦両軍の動き

第三部 全国での関ヶ原の戦い

 

令和2年715

 

 

一部 関ケ原合戦図屏風解説

関ケ原町文化財に指定されている翫月邸峩山筆の関ケ原合戦屏風には、合戦時の関ケ原一帯を背景に800名程の中に、113名もの武将が記載されている。

関原始末記等や逸話を交えて合戦図屏風の名場面を解説してみる。

 

@ 一扇目右下 家康の陣 伍の字の旗の御使番(敵情視察等が通常の役目、見つかれば真っ先に殺される。

しかし、ここでは各所に点在して、手柄・武功の判定者)が、恐らく陣幕の奥にいる家康に報告をしている。

また、一番手前に戸田氏鉄(うじかね:1635年に大垣城主)、その奥に南天坊天海が描かれている。天海は従軍僧として家康の参謀と思われる。

 

A 一扇目中央部 戸川達安 宇喜多家家老であるが宇喜多騒動で離脱、細川陣に描かれているが、加藤嘉明に陣仮したとも。

 

B 二扇目中央部 家康陣の直前方の様子 井伊直政・田中吉政・加藤嘉明の諸隊が陣取る。白旗は家康旗印(厭離穢土欣求浄土を表す)

注:右中央部に徳川秀忠に従軍し、関ヶ原に来ていない酒井家次の名が酒井家片喰(かたばみ)紋の上にある。

関原始末記が酒井忠勝の編集だから酒井家の名がある。

 

C 二扇目下部 大馬印【金扇】の前で首実験が行われている。

この場面では兼松又四郎が持参の首級を武将が見分けし記帳している様子が描かれている。

 

D 二扇目上部 石田三成隊を攻める東軍諸将と打ち返す三成配下の諸将たち。

左上に鉄砲で撃たれた島左近、その右方には左近を鉄砲で撃った黒田長政隊の菅六之助、また、右隣に舞兵庫、左下に蒲生備中らが描かれている。

 

E 二扇目上部 鉄砲で撃たれた島左近(赤色の鍬形兜の武将)が両脇を支えられ退いていき負傷手当の上再度参戦したとも、その後不明とも。

 

F 三扇目上部 石田三成陣 家康同様人物は描かれていないが、名は記載されている。

手前に「馬防柵」と思われる柵がめぐらされている。

 

G 三扇目中央部 先鋒を司った福島正則 名と共に【先駆】とも記され、先鋒だったことが分かる。

 

H 三扇目四扇目中央部 福島陣。福島正則とすぐ近くに可児才蔵(笹の才蔵)福島の旗印は黒字に山道ではなく、五七の桐に山道が使われている。

 

I 四扇目下部 福島正勝(後に忠勝)。正則の養嗣子正之(満15歳)のでなく、正之の死後に福島家を継いだ実子正勝(2歳)が描かれているがあり得ない。

 

J 三扇目下部 福島(正之)陣に今も残る大杉(樹齢800年と言われている。当時は400年の大杉)。

大杉の右手前に描かれた月見の宮、南宮山に昇る月をめでる月見の名所。

 

K 三扇目中央 本田平八郎忠勝 島津勢の銃撃戦で死亡した秀忠拝領の名馬、三国黒より落馬の図。生涯57回の合戦に及ぶも、かすり傷一つ負わなかったと伝えられている。

鹿角兜・袈裟懸の大数珠・名槍蜻蛉切りなどが有名。

 

L 三扇・四扇目 島津の敵中突破 この時とった捨て奸戦が有名。

その後、島津義弘は摂津住吉で妻を救出し大坂城で毛利輝元の家臣と折衝し、島津義久の娘・亀寿を連れて薩摩に戻る。

 

M 四扇目上部 宇喜多秀家 この合戦図屏風では【宇喜多】ではなく【浮田】と記載されている。

正室は二歳のとき秀吉の養女に出された前田利家の四女豪姫。

 

N 四扇目上部 明石掃部(全澄)合戦では宇喜多隊八千名の槍部隊を率いて応戦。

大坂の陣では豊臣五将の一人として戦った切支丹武将。

 

O 四扇目下部 稲葉貞通 犬山城から離脱し東軍に就いた美濃武将の一人。郡上八幡城主。

稲葉一鉄の次男だが正室の子ゆえ嫡男として育つ。

妹(安)は斎藤利三に嫁ぎ生まれた娘がお福(春日の局)

また、井伊直政が凋落したと言われている西軍犬山城に参陣した美濃武将たちでは、竹中重門と稲葉貞通のみ描かれ、加藤貞泰、関一政の記載がない。

 

P 五扇目中央部 奥平貞治 徳川に内通した小早川陣に東軍軍監として布陣。

主家豊臣への裏切りは出来ずと離脱した松野主馬重元にかわり松野隊を率いて参戦。

この合戦で唯一戦死した東軍武将と言われる。妻子なくその母に家康は供養料300石を与えている。

P 五扇目中央部 大谷吉隆(吉継) 合戦図屏風では「吉隆」となっている。

甥の従軍僧・祐玄が写筆したとされる平塚為広との間で交わされた辞世の句が有名。

三好義継に音が通じて不吉とされ、改名したという説が最も一般的。

注:大谷吉継 辞世の句 平塚為広への返句

契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも

訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世

名のために 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば

 

Q 五扇目中央部 平塚為広・湯浅五助・藤堂仁右衛門 大谷吉継に纏わる「義」の世界三人が描かれている。

主君の御首を埋めた湯浅と仁右衛門との「武士の約束あり」の逸話が残るこの合戦図屏風の名場面。

 

R 六扇目下部 小早川隊の先鋒平岡石見(頼勝)と主家への裏切りは出来ずと戦場離脱した松野主馬。

合戦後、家康は主家に準じた松野を「これぞ真の武士」と評価。

田中吉政に仕官させる。田中家断絶後徳川忠長に仕える。

 合戦後秀秋を嫌い出奔する家臣が相次ぐ中、平岡は最後まで忠義を尽くした。

秀秋没後浪人するも四年後に家康に仕え一万石の大名になる。

 

S 六扇目中央部 脇坂隊が大谷隊へ押しかける画面・裏切り四隊脇坂安治・朽木元網・小川祐忠・赤座直保の内、正面切って戦っているのは屏風では脇坂のみ。

また、稲葉正成が大谷の子木下頼継と戦っている様子が描かれている。戦後正成は秀秋と対立美濃に蟄居。秀秋没後浪人。

慶長十二年、家康に召し出され、美濃国(十七条藩主)に一万石の領地を与えられて大名になる。

落款 この落款があることで、嘉永7年(1854年)に狩野梅春の元絵を翫月邸峩山と言う絵師が肉筆模写したという。

制作年と作者が判明できる。

注:嘉永7年(1854)のもので、狩野梅春の原本を翫月邸峩山(かんげつていがせん)という絵師が模写したものです。

関ヶ原合戦図屏風は全国に十数点有り、その中でも直接、徳川家康が作らせたという「津軽屏風」(大阪歴史博物館蔵)が最古と言われている。

注:狩野貞信(梅春)は江戸後期の狩野派の画家。絵師として幕府に仕える。

注:津軽屏風 家康は、関ヶ原の戦いで土佐派の絵師(土佐光吉かその周辺の人物)を戦場に同行させていた。

そして描かせた「関ヶ原合戦図屏風」を気に入り、駿府城広間に飾っていた。

その合戦図屏風は、八曲二双の四隻三十二扇まである大屏風だったと考えられ満天姫(父は家康の異父弟松平康元の娘であるが、家康の養女となる。

正之の正室)が津軽家に再嫁する際、家康に嫁入り道具として懇願したのが通称「津軽屏風」(全体の半分の二隻)で、この中には、前夫正之が活躍した画面が描かれている。

この屏風は大阪歴史博物館所蔵されている。

注:他にある合戦図屏風は彦根城博物館蔵、埼玉県行田市郷土博物館所蔵、大垣市長源寺所蔵、関ヶ原ウオーランド所蔵、敦賀市学物館所蔵、岐阜市歴史博物館蔵、福岡市博物館蔵、徳川美術館蔵、大阪城天守閣蔵、また、個人での所蔵されているものもある。

資料として、「関ヶ原歴史を語る会」で平成3010月に発表された原稿を参考にしました。

 

二部 関ケ原合戦両軍の動き

慶長3年(1598年)

8月18日 豊臣秀吉、伏見城で没す(62歳) 子秀頼継ぐ。

8月25日 徳川家康と前田利家、朝鮮在陣の諸将を帰国させる。

9月3日  徳川家康、前田利家ら、豊臣秀頼に忠誠を誓う。また、五大老(徳川・前田利家・毛利・上杉・宇喜多)は五奉行(増田・前田玄以・浅野・石田・長束)と誓書を交わす。

12月   朝鮮在陣日本軍の撤兵が完了する。

 慶長4年(1599年)

1月5日  秀吉の死が公表される。

1月10日  豊臣秀頼、伏見城から大坂城に移る。

1月19日 秀吉の遺命に背(そむ)き、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政・加藤清正・黒田長政と婚姻を推し進めたとして前田利家など大老らが家康を糾弾する。

2月2日  家康、婚姻策をすすめていたが、大老五奉行に糾問されたため、前田利家らと誓書を交換して和解する。

閏3月3日 前田利家、大坂で没す(62歳)。

閏3月4日 石田三成は、加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・蜂須賀家政・藤堂高虎ら七武将の襲撃計画を知り、家康に保護を求める。

閏3月9日 三成、佐和山城に蟄居する。

閏3月13日 家康、伏見城に移る。

8月10日  上杉景勝、伏見から会津に帰国する。

9月27日 家康、大坂城西の丸に入る。

十月三日  家康、前田利の征伐を発表する。
冬     前田利
に謀反の疑いがかけられる。

慶長5年(1600年)

2月2日 会津の上杉景勝、出羽仙道諸城の修築を督励する。

3月   上杉景勝の家臣藤田信吉、景勝が家康と対立することに反対し、直江兼続と衝突。信吉上杉家を去り秀忠のもとに走る。

4月1日 家康、京都相国寺の西笑承兌(じょうけい)に、景勝への詰問状を書かせ直江兼続に送り陳謝を要求。

4月14日 直江兼続が詰問状に対する返書を書く。

5月3日 家康、直江兼続の返書を見て怒り、諸大名に討伐令を下す

5月17日 前田利長、家康と和を講じ、母芳春院を人質に出  す。

6月6日 家康、諸将を大坂城に集めて、上杉攻めの部署を定める。

6月15日 豊臣秀頼、上杉攻めにあたり家康に黄金二万両と米二万石を与える。

6月16日 家康、諸将を率いて会津に向けて大坂城を出発。
      伊達政宗(仙台藩)、伏見を発して帰国する。ついで最上義光(山形藩)・佐竹義宣(秋田藩)・南部利直(盛岡藩)らもまた帰国する。

6月18日 家康、伏見城を発す。同夜、水口城主長束正家らの夜襲計画を察知し水口石部を夜半出発する。

7月1日 織田秀信、三成の勧めで近江佐和山城に行く。

7月2日 家康、江戸城へ入る。

7月11日 石田三成、会津征伐に向かう途中の大谷吉継を美濃垂井から佐和山城に迎え、家康討伐を謀る。

7月12日 大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊ら、佐和山城に会し、毛利輝元を総大将に迎えことを協議する。

長盛、このことを家康に密告する。

7月17日 毛利輝元、大坂城西の丸に入り、西軍の総大将に
なる。長束・増田・前田の三奉行、家康の13カ条の罪状を挙げ諸大名に家康討伐の檄文を送る。
細川忠興の妻ガラシャ西軍の人質になることを拒み、自害。

7月19日 西軍諸将、伏見城を囲み総攻撃を開始する。

7月21日 家康、会津征伐のため江戸を出発する。
     西軍、細川幽斎の田辺城を攻撃する。

7月23日 輝元の養子秀元、吉川広家、大坂より近江に入る。

7月24日 家康 小山に着陣。伏見城より上方の異変が伝わる。

7月25日 家康、諸将に上方の異変を告げ、軍議をし、諸将に去就を問う。

7月29日 三成、佐和山から伏見に到着する。

8月1日  西軍、伏見城を攻落。城主鳥居元忠、松平家忠ら討死する

8月2日  前田利長・利政と加賀大聖寺城を攻略。城主山口宗永自刃。

8月5日  毛利秀元、吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊ら伊勢に進軍家康、小山より江戸城に帰還する。

8月9日  三成、垂井に到着する。

8月10日  三成、大垣城に入城する。

8月11日  福島正則、清州城に帰城する。

8月17日  吉川広家、黒田長政を頼り、使者を江戸に
送って、毛利輝元が西軍に応じたことを弁明する。

8月19日  家康の使者村越直吉、清洲城に到着し、東軍諸将を督戦

8月20日  島津義弘、美濃墨俣の守備につく。

8月22日 池田輝政、木曽川上流を渡河し、織田秀信の軍を破る。福島正則、木曽川下流を渡河し、美濃竹鼻城を落とす。

8月23日 福島正則、池田輝政ら、織田秀信のこもる岐阜城を陥落させる。

秀信は降伏して高野山に入る。

8月24日 鍋島勝茂ら、古田重勝のこもる伊勢松坂城を攻落。

東軍東海道先鋒隊、美濃赤坂の高台を占拠し、大垣城にこもる西軍と対峙する。
徳川秀忠、中山道を西上し、宇都宮から信濃に向かう。

8月25日 毛利秀元ら、伊勢濃津城を攻略する。

8月26日 三成、大垣より佐和山に帰城。毛利輝元に出陣を要請する。

9月1日 家康、三万の兵を率いて江戸を出発する。秀忠は信濃軽井沢に到着する。

9月2日 大谷吉継、越前より美濃に入り、山中村に布陣する。

9月3日 家康、小田原に入る。秀忠、小諸に到着する。
毛利元康と立花宗茂、京極高次のこもる大津城攻める。
尾張犬山城にこもる竹中重門と加藤貞泰から、東軍につく許しを乞う使者が小田原の家康のもとに着く。

9月4日 家康、伊豆三島に着く。五日 家康、駿河清見関に着く。

9月6日 家康、駿河島田に着。秀忠、真田昌幸のこもる上田城攻めにかかる。

9月7日 家康、遠江中泉に着く。

 毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長曾我部盛親、

長束正家、伊勢から美濃に入り南宮山・栗原山に布陣する

9月8日 遠江白須賀の家康のもとに小早川秀秋の使者が到
する。

9月9日 家康、三河岡崎着く。

9月10日 家康、熱田着。秀忠、上田城攻め中止し、美濃に向かう。

9月12日 石田三成、増田長盛へ最後の書状を送る。

9月13日 家康、岐阜着。細川幽斎、勅命を受けて田辺城を開城。

9月14日 家康、正午頃赤坂に着く。小早川、松尾山城に入る。

      京極高次、大津城の開城を決定する。

美濃杭瀬川で三成の家臣島左近、東軍の中村一栄に勝利
西軍、夜大垣城から関ヶ原に移動。赤坂の東軍これを追う。

9月15日 美濃関ケ原で東西両軍激突。東軍勝利する。

      直江兼続、出羽の長谷堂城を攻撃する。

       黒田如水、大友義統を降伏させる。

9月16日 東軍、石田三成の佐和山城攻めを開始する。

9月17日 佐和山城を陥落、石田正継・正澄の父子ら自刃する。

      西軍、大垣城を開城する。

9月18日 家康、近江八幡着く。

9月19日 家康、草津着く。小西行長、伊吹山中で捕らえられる。

9月20日 家康、大津城に入る。

9月21日 石田三成、伊吹山中で捕らえられる。

       加藤清正が小西行長の宇土城を攻撃する。

9月23日 安国寺恵瓊、京都で捕らえられる。

9月24日 毛利輝元、大坂城西の丸を退去する。

9月27日 家康、大坂城西の丸に入り秀頼と会見する。

9月30日 池田輝政ら、長束正家の水口城を攻落、正家自刃する。

     上杉景勝西軍の敗報を聞き、直江兼続に出羽最上より撤兵を命じる。

10月1日 石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、京都六条河原で斬首。

1015日 家康、関ヶ原合戦における諸将の論功行賞を発表する。

1112日 家康、黒田如水らに九州平定を中止させる。 

慶長6年(1601年)

8月   上杉景勝が家康に謝罪する。

慶長7年(1602年)

12月   島津秀忠が家康に謁見する

慶長19年(1614年)

11月から12 大坂冬の陣

慶長20年(1615年)

5月  大坂夏の陣。豊臣秀頼・淀君が自刃し、豊臣家は滅亡する。

元和2年(1616年)

4月17日 家康 駿府城で没す(73歳)。

 

 

三部 全国での関ヶ原の戦い

〇 初めに

 一般的にいう西軍、石田三成と東軍、徳川家康の戦いは関ヶ原以外の地でも東西に分かれて多数戦われている。一度これを整理してみる。

図解 関ヶ原合戦 (えい)出版社 2018年4月発行を参考文献として大部分を引用して書きます。

〇 各地での戦い

先に、戦いの記入については、各地で起きた戦いの早い順にし、攻撃側を先に、防御側を後に書き、勝者を〇、敗者を×とする。

 

1 山城 伏見城の戦い(京都市伏見区桃山町)

日時 慶長5年 7月19日から8月1日

西軍 〇石田三成 東軍 ×鳥居元忠

会津の上杉景勝を討つと称して徳川家康が東下すると、石田三成が西軍をまとめて挙兵。家康の家臣鳥居元忠らが守る伏見城は、西軍の猛攻により落城した。

 

2 丹後 田辺城の戦い(京都府舞鶴市南田辺)

日時 慶長5年 7月20日から9月13日

西軍 〇小野木重次 東軍 ×細川藤孝(幽斎)

伏見城を攻めると同時に、西軍についた福知山城主小野木重次らが田辺城を包囲する。

守る細川藤孝は、六十日間の籠城ののち、勅命を奉じて降伏開城した。

 

3 陸奥 河股城の戦い(福島県伊達郡川俣町)

日時 慶長5年 7月24日

東軍 ×伊達政宗方 桜田元親 西軍 〇上杉景勝方

徳川家康による会津攻めに従った伊達政宗は、家臣の桜田元親に命じて、上杉景勝の属城である河股城を攻撃させた。

ただし、これは上杉軍を河股城に釘付けする作戦だったらしい。

上杉軍の援軍が到着する直前、元親は河股城から撤退した。

 

4 陸奥 白石城の戦い(宮城県白石市益岡町)

日時 慶長5年 7月24日から25日

 東軍 〇伊達政宗 西軍 ×上杉景勝方

伊達政宗は、桜田元親に河股城を攻撃させる一方、自らは白石城を攻撃する。

守将の甘糟(あまかす)景継は白河口で守備していたため不在で、翌日、城兵は降伏開城した。

この直後、家康は石田三成の挙兵知り、畿内へ引き返す。政宗も石川昭光に白石城を預け、撤退した。

 

5 越後 下倉城の戦い(新潟県魚沼市下倉字滝沢)

 日時 慶長5年8月1日から2日

 西軍 〇上杉景勝方 大国実頼(さねより) 東軍 ×堀秀治方 小倉政煕

上杉景勝は、直江兼続の実弟大国実頼に命じて、旧領である越後に残った遺臣らを糾合して一揆をおこさせた。

一揆勢は、堀秀治の支城下倉城を攻撃し、城主小倉政煕は討ち死にする。

 

6 加賀 大聖寺城の戦い(石川県加賀市大聖寺錦町)

 日時 慶長5年8月3日

 東軍 〇前田利長 西軍 ×山口(むね)(なが)

東軍についた前田利長は、金沢を出陣すると西軍についた山口宗永の大聖寺城を包囲した。

宗永は子の(なが)(ひろ)とともに自害し、大聖寺城は落城した。

 

7 伊賀 上野城の戦い(三重県伊賀市上野丸之内)

 日時 慶長5年8月5日頃

 西軍 〇新庄直頼(なおのり) 東軍 ×筒井定次方 筒井玄蕃

西軍についた高槻城主新庄直頼が上野城を攻撃。

上野城主筒井定次は会津攻めに従軍しており、定次の兄玄蕃は不戦開城する。

本戦後、定次が城を取り戻している。

 

8 加賀 浅井畷(あさいなわて)の戦い(石川県小松市大領町一番)

 日時 慶長5年8月8日

 西軍 〇丹羽長重  東軍 ×前田利長

大聖寺城を落とした東軍の前田利長は、いったんは越前に入るが、八月五日、金沢に兵を戻す。

このとき、小松城主丹羽長重が前田勢を追撃し、浅井畷で前田勢を破った。

 

9 美濃 多治見の戦い(岐阜県多治見市一帯)

 日時 慶長5年8月12日

 西軍 ×田丸直昌方 東軍 〇妻木頼忠 

西軍についた岩村城主田丸直昌の家老田丸主水は、東濃の制圧を図り、東軍についた妻木頼忠の所領に侵入する。

妻木頼忠は、田丸軍を迎え撃ち、撃破した。

 

10 美濃 苗木城の戦い(岐阜県中津川市苗木)

 日時 慶長5年8月15日

東軍 〇遠山友政  西軍 ×川尻秀長方 関治兵衛

西軍についた川尻秀長の居城苗木城を、東軍の遠山友政が攻撃、城代の関治兵衛は、抗戦の不利を悟って城から脱出した。

 

11 美濃 福束城の戦い(岐阜県安八郡輪之内町)

 日時 慶長5年8月16日

 東軍 〇徳永寿(なが)(まさ)・市橋長勝  西軍 ×丸毛兼利

美濃では、福束城の丸毛兼利が西軍についた。

このため、東軍に属す松ノ木城の徳永寿昌や今尾城の市橋長勝らが福束城を攻撃。福束城は落城し、丸毛兼利は大垣城に入った。

 

12 美濃 高須城の戦い(岐阜県海津市海津町高須)

 日時 慶長5年8月19日

 東軍 〇徳永寿昌・市橋長勝  西軍 ×木盛兼

福束城を落とした東軍の徳永寿昌・市橋長勝は、同じく西軍についた木盛兼の高須城を攻撃した。

東軍が高須城を攻略。

 

13 美濃 駒野の戦い(岐阜県海津市南濃町駒野)

 日時 慶長5年8月19日

 東軍 〇徳永寿昌・市橋長勝  西軍 ×木帯刀(たてわき)

高須城を落とした東軍の徳永寿昌・市橋長勝は、勢いに乗じて駒野城をも攻撃する。

木盛兼の一族木帯刀が守っていたが、抗戦を諦めて開城した。

 

14 美濃 津屋城の戦い(岐阜県海津市南濃町津屋)

 日時 慶長5年8月19日

東軍 〇徳永寿昌・市橋長勝  西軍 ×木正家

東軍は、駒野城を包囲するとともに、駒野城に近い津屋城も包囲した。

津屋城には、高須城から木盛兼らが逃れてきていたが、支えることができない。

木一族は城を捨てて大垣城に入った。

 

15 美濃 柿野の戦い(岐阜県土岐市鶴里町柿野)

日時 慶長5年8月20日

 東軍 〇妻木頼忠 西軍 ×田丸直昌方

東軍の妻木頼忠は、侵攻してきた田丸直昌の軍勢に反撃を開始する。

敗れた田丸勢は、美濃高山城に退却した。

 

16 美濃 河田(こうだ)の戦い(岐阜県各務原市川島河田町)

日時 慶長5年8月22日朝方

 東軍 〇池田輝政 西軍 ×織田秀信方

清洲城に集結していた東軍の主力は、8月20日を期して美濃に侵攻することを決めた。

東軍池田輝政率いる一軍は、木曽川を渡河し、米野で織田秀信の軍勢を破った。

 

17 美濃 米野の戦い(岐阜県羽島郡笠松町米野)

日時 慶長5年8月22日昼頃

 東軍 〇池田輝政 西軍 ×織田秀信方 木造(こつくり)(とも)(やす)

織田秀信の家臣木造具康は、木曽川を渡ってきた東軍池田輝政らを待ち構えていた。

しかし、西軍は米野で東軍に撃破されてしまった。

注 河田木曽川渡河の戦いと、米野の戦いは、同じ8月22日の戦いで、同じ戦いとされているが、東軍の木曽川渡河を防ぐ戦いが河田木曽川渡河の戦い、東軍と織田秀信の最前線の軍との戦いが米野の戦いと解釈されている。

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18 美濃 加賀野井城の戦い(岐阜県羽島市下中町加賀野井)

日時 慶長5年8月22日

 東軍 〇福島正則 西軍 ×加賀野井秀盛方

池田輝政が率いる一軍が米野で織田方と戦う一方、福島正則率いる一軍は、加賀野井城を攻撃した。

加賀野井城の加賀野井秀盛は竹ヶ鼻城を守っており、加賀野井城は落城した。

 

19 美濃 竹ヶ鼻(たけがはな)城の戦い(岐阜県羽島市竹鼻)

日時 慶長5年8月22日

 東軍 〇福島正則 西軍 ×杉浦重勝 

加賀野井城を落とした福島正則らは、勢いに乗じて、竹ヶ鼻城を攻撃する。

城主杉浦重勝は交戦したものの防ぎきれず、城に火を放って自害した。

 

20 美濃 城ヶ根の戦い(岐阜県加茂郡白川町)

日時 慶長5年8月22日

 西軍 ×遠藤(たね)(なお)  東軍 〇遠藤(よし)(たか)

犬地城主遠藤胤直と小原城主遠藤慶隆は同族ながら対立しており、関ヶ原の戦いでは東西にわかれて争う。

岐阜城の落城後、遠藤胤直が降伏した。

 

21 美濃 岐阜城の戦い(岐阜市金華山)

日時 慶長5年8月23日

 東軍 〇池田輝政・福島正則 西軍 ×織田秀信

木曽川の渡河に成功した東軍は、池田輝政・福島正則が中心となって岐阜城を攻撃する。

堅城として知られた岐阜城もわずか一日で落城し、城主織田秀信は剃髪のうえ、高野山に追放された。

 

22 美濃 河渡の戦い(岐阜市河渡)

日時 慶長5年8月23日

 東軍 〇黒田長政・田中吉政 西軍 ×石田三成方 舞兵庫

米野の戦い後、石田三成は重臣の舞兵庫に長良川西岸の河渡(合渡)を守らせた。

これに対して、東軍の黒田長政・田中吉政らが西軍を奇襲によって破った。

 

23 美濃 曽根城の戦い(岐阜県大垣市曽根町)

日時 慶長5年8月23日

東軍 〇松下重綱 西軍 ×石田三成方 

河渡の戦いで西軍を破った東軍は、本陣をおく赤坂周辺の征圧に乗り出す。

松下重綱は、田中吉政らとともに石田三成の兵を破り、西尾光教の曽根城などを奪還した。

 

24 尾張 犬山城の戦い(愛知県犬山市犬山)

日時 慶長5年8月24日

 東軍 〇井伊直政 西軍 ×石川貞清

岐阜城が落城すると、東軍井伊直政は、犬山城に援軍として入っていた西軍を勧降する。

竹中重門・加藤光泰・関一政らが東軍に転属したため、城主石川貞清は城を退去した。

 

25 伊勢 安濃津城の戦い(三重県津市丸の内)

日時 慶長5年8月24日から27日

西軍 〇毛利秀元 東軍 ×富田信高

伏見城を落とした西軍の毛利秀元らは、伊勢に侵入。

東軍についた安濃津城を攻撃。城主の富田信高は、降伏勧告を受け入れ、開城した。

 

26 伊勢 松坂城の戦い(三重県松阪市殿町)

日時 慶長5年8月24日

西軍 ×鍋島勝茂 東軍 〇古田重勝

西軍は、安濃津城を攻撃する一方、同じく東軍についた松坂城の古田重勝を攻撃。

しかし、攻略には至らなかった。

 

27 伊勢 長島の戦い(三重県桑名市長島町)

 日時 慶長5年8月30日

 西軍 ×毛利秀元 東軍 〇福島高晴

安濃津城を落とした西軍は、長島城の攻撃に向かう。

福島正則の弟福島高晴が守る長島城を西軍は落とせない。

そうこうする間に徳川家康の西上を迎えたため、美濃に向かった。

 

28 伊賀 上野城の戦い(三重県伊賀市上野)

 日時 慶長5年8月

 西軍 〇新庄直頼 東軍 ×筒井定次方 筒井玄蕃

西軍の摂津高槻城主新庄直頼が、筒井定次の居城であった伊賀上野城を攻略。

その後、定次によって奪還された。

 

29 美濃 池尻の戦い(岐阜県大垣市池尻町)

 日時 慶長5年8月

 東軍 〇    西軍 ×飯沼長資(ながすけ)

岡山に本陣をおいた東軍は、大垣城周辺の征圧に乗り出し、飯沼長資の池尻城を破却した。

飯沼長資は22日の米野の戦いで戦死している。

 

30 美濃 西保城の戦い(岐阜県安八郡神戸町西保)

 日時 慶長5年8月

 東軍 〇    西軍 ×木村勝正

東軍は木村勝正の西保(にしのほ)(じょう)を焼き払う。

木村勝正は、大垣城に籠城していて、その後、討ち死にする。

 

31 美濃 本郷城の戦い(岐阜県揖斐郡池田町本郷)

日時 慶長5年8月

 東軍 〇   西軍 ×国枝政森

東軍は、国枝政森の本郷城も焼き払い、大垣城に対する包囲を強めた。

 

32 美濃 曽根城の戦い(岐阜県大垣市曽根町)

 日時 慶長5年8月

西軍 〇   東軍 ×西尾光教

大垣城の西軍も、東軍に属した西尾光教の曽根城に放火した。

曽根城は、関ヶ原の戦い後、廃城となる。

 

33 美濃 高山城の戦い(岐阜県土岐市土岐津町高山)

日時 慶長5年9月1日

東軍 〇妻木頼忠  西軍 ×田丸直昌方

柿野の戦いに敗れた田丸直昌の軍勢は、美濃高山城に籠城していた。

しかし、東軍の妻木頼忠に敗れ、田丸勢は城に火を放って退却した。

 

34 美濃 郡上八幡城の戦い(岐阜県郡上市八幡町)

日時 慶長5年9月1日から2日

 東軍 〇遠藤慶隆・金森(よし)(しげ)  東軍 ×稲葉貞通の子 稲葉通孝

東軍についた遠藤慶隆は、かつて居城としていた郡上八幡城の奪還に乗り出す。

城主稲葉貞通はすでに東軍に寝返っており、貞通の子通孝は降伏開城した。

 

35 美濃 明知城の戦い(岐阜県恵那市明智町)

日時 慶長5年9月2日

東軍 〇遠山利景  西軍 ×田丸直昌方

徳川家康の命を受けた遠山利景は岩村城主田丸直昌の支城明知城を、奪還する。

利景は、かつて、明知城の城主だった。

 

36 美濃 郡上八幡城の戦い(岐阜県郡上市八幡町)

日時 慶長5年9月3日

 東軍 〇稲葉貞通  東軍 ×遠藤慶隆・金森可重 

犬山城を守っていた稲葉貞通は、急ぎ戻ると遠藤慶隆の本陣を急襲し、郡上八幡城を奪還した。

翌日、和議が結ばれ、遠藤慶隆らは撤退した。

 

37 美濃 小里城の戦い(岐阜県瑞浪市稲津町)

日時 慶長5年9月3日

東軍 〇小里(おり)光親  西軍 ×田丸直昌方

徳川家康の命を受けた小里光親は、岩村城主田丸直昌の支城小里城を奪還する。

光親の父、光明は、かつて、小里城の城主だった。

 

38 信濃 上田城の戦い(長野県上田市二の丸)

日時 慶長5年9月6日から11日

東軍 ×徳川秀忠 西軍 〇真田昌幸

会津攻めからの帰途、中山道から畿内に向かった徳川秀忠は、西軍についた真田昌幸の上田城を攻撃。

戦線が膠着するなか、家康の命により、攻略を断念する。

 

39 近江 大津城の戦い(滋賀県大津市浜大津)

日時 慶長5年9月8日から14日

 西軍 〇毛利元康・立花宗茂  東軍 ×京極高次

それまで西軍として行動していた大津城の京極高次が東軍に寝返った。

このため、毛利元康・立花宗茂ら西軍が大津城を猛攻した。

 

40  豊後 高田城の戦い(大分県豊後高田市玉津)

日時 慶長5年9月10日

東軍 〇黒田孝高(如水)  西軍 ×竹中重利

豊臣秀吉によって改易されていた大友(よし)(むね)が、西軍について旧領の豊後に侵入した。

これに対して、東軍についた豊前中津城の黒田孝高(如水)は、3600余の軍勢を集めて豊後に向かう。

旗幟(きし)を鮮明にしていなかった豊後高田城の竹中重利をまず(くだ)した。

 

41 豊後 木付(きつき)城の戦い(大分県杵築市杵築)

日時 慶長5年9月10日から12日

 西軍 〇大友義統  東軍 ×細川忠興方 松井康之・有吉(たつ)(ゆき)

黒田孝高が高田城を降したころ、大友義統は、細川忠興の飛び地であった木付城を攻撃した。

木付城を守るのは、忠興の家臣松井康之・有吉立行ら200余しかいない。

木付城からの要請を受けた黒田孝高が援軍二千を送ると、大友軍は木付城から兵を退く。

 

42 出羽 畑谷城の戦い(山形県東村山郡山辺町畑谷)

日時 慶長5年9月12日から13日

 西軍 〇上杉景勝方 直江兼続  東軍 ×最上義光(よしあき)方 江口(あき)(きよ)

山形城の最上義光は、上杉景勝と結んでいたが、家康の会津征伐を受け、景勝と手を切った。

このため、景勝は直江兼続に命じて最上氏を攻めさせる。

攻め手は直江兼続率いる上杉軍20000余で、城主江口光清ら300余の最上勢は徹底抗戦したが、落城した。

 

43 志摩 舟津城の戦い(三重県鳥羽市舟津町)

日時 慶長5年9月13日

 東軍 〇九鬼守隆   西軍 ×九鬼嘉隆

鳥羽城主九鬼守隆が会津攻めに従軍しているさなか、守隆の父九鬼嘉隆は隠居の身で在国し西軍につく。

そのため、父子は舟津で戦うこととなるが、嘉隆は空砲を撃たせて戦い、敗北したという。

 

44 豊後 石垣(ばる)の戦い(大分県別府市石垣西・石垣東)

日時 慶長5年9月13日から15日

西軍 ×大友義統  東軍 〇黒田孝高(如水)

木付城から撤退した大友軍は、別府の石垣原に布陣する。

これに対し、黒田孝高も()(つき)城を打って出た松井康之・有吉立行らとともに石垣原に布陣した。

9月13日に両軍が激突し、黒田軍が大友軍を撃破し、15日、大友義統は、剃髪して降伏の意を示した。

 

45 美濃 (くい)()川の戦い(岐阜県大垣市笠木町一帯)

日時 慶長5年9月14日

西軍 〇石田三成方 島左近・明石全登(たけのり) 東軍 ×中村(かず)(ひで)

九月十四日、徳川家康が赤坂に着陣する。

石田三成の重臣島左近に命じて東軍を徴発させ、杭瀬川において、東軍の中村一栄らを破った。

 

46 美濃 関ヶ原の戦い(岐阜県不破郡関ケ原町)

日時 慶長5年9月15日

 東軍 〇徳川家康   西軍 ×石田三成

大垣城に入っていた石田三成が、関ヶ原に移動すると、岡山の陣にいた徳川家康も関ヶ原に移動する。

こうして、関ヶ原で東西両軍の主力が激突し、西軍が破れた。

 

47 美濃 大垣城の戦い(岐阜県大垣市郭町)

日時 慶長5年9月15日から23日

 東軍 〇水野勝成   西軍 ×福原長堯(ながたか)

石田三成率いる西軍の主力が関ヶ原に移動したあと、東軍の水野勝成・松平康長らは大垣城を包囲していた。

9月23日、守将の福原長堯が降伏開城し、伊勢に落ち延びた。

 

48 出羽 長谷堂城の戦い(山形県山形市長谷堂盾山)

日時 慶長5年9月15日から10月1日

西軍 ×上杉景勝方 直江兼続  東軍 〇最上義光方 志村光安(あきやす)

畑谷城を落とした直江兼続は、18000の大軍を率いて、山形城の最後の砦ともいえる長谷堂城を9月15日から攻めた。

だが、守将の志村光安らは懸命にこらえ、伊達政宗の援軍が22日に来援して膠着となっていた。

しかし、西軍の敗報が九月末に届くと、事態は一変する。

上杉景勝は最上領からの撤収を決め、今後は直江兼続が窮地に立つ。

10月1日に兼続は困難な退却戦をやり遂げつつ、上杉軍は撤退した。

 

49 出羽 上山城の戦い(山形県上山市)

日時 慶長5年9月17日

東軍 〇最上義光方里見民部 西軍 ×上杉景勝方本村親盛 横田(むね)(とし)

上杉軍の別動隊は、上山城に向かう。

このとき、城主里見越後守は山形城にいて不在で、子の里見民部以下500余が守っていた。

9月17日夜、里見民部は兵300人を率いて城から打って出ると、上杉軍の陣を急襲。

これにより本村親盛が討ち死にし、上杉軍が撤退した。

 

50  伊予 三津浜城の戦い(愛媛県松山市古三津)

日時 慶長5年9月17日

 西軍 ×毛利輝元方 宍戸景世  東軍 〇加藤嘉明 方

西軍毛利輝元の支援を受けた河野氏の名目的な当主宍戸景世が、加藤嘉明の松前(まさき)城を攻撃しようとした。

これに対して、加藤勢が三津浜に布陣する西軍を撃破した。

 

51 近江 佐和山城の戦い(滋賀県彦根市佐和山町)

日時 慶長5年9月17日から18日

東軍 〇徳川家康方 小早川秀秋ら 西軍 ×石田正継・石田正澄

関ヶ原の戦い後、石田三成は逃亡したものの、三成の居城佐和山城は、三成の父正継・兄正澄らが守っていた。

東軍は、内通者の手引きに依り、佐和山城を2日で落とした。

正継・正澄らは自害した。

 

52 豊後 安岐(あき)城の戦い(大分県国東(くにさき)()安岐町)

日時 慶長5年9月17日から19日

東軍 〇黒田孝高  西軍 ×熊谷直盛方 熊谷外記(げき)

石垣原の戦いで大友義統を破った黒田孝高は、西軍についた熊谷直盛の安岐城を包囲する。

攻撃しながらも、城兵の命を助けるという条件で降伏を勧告したため、9月19日には早くも降伏開城した。

 

53 陸奥 花巻城の戦い(岩手県花巻市城内)

日時 慶長5年9月20日から21日

 西軍 ×和賀忠親   東軍 〇南部利直方 北信愛(のぶちか)

南部利直が出羽山形城に入った隙に、豊臣秀吉の奥羽仕置きで改易されていた和賀忠親が、旧領を回復するために、花巻城を包囲した。

しかし、北信愛が防戦に務め、援軍も到着したため、忠親は撤退した。

 

54 肥後 宇土城の戦い(熊本県宇土市古城町)

日時 慶長5年9月21日から10月14日頃

 東軍 〇加藤清正   西軍 ×小西行長方 小西行景

東軍についた熊本城の加藤清正が、西軍についた小西行長の宇土城を攻撃する。

行長自身は関ヶ原に出陣していたため、行景らが死守していた。

しかし、関ヶ原での西軍の敗戦が明らかとなった時点で、行景が自刃し、降伏開城した。

 

55 豊後 富来(とみく)城の戦い(大分県国東市国東町)

日時 慶長5年9月23日から10月2日

東軍 〇黒田孝高  西軍 ×垣見(かず)(なお)方 垣見()衛門(えもん)

安岐城を降した黒田孝高は、富来城を包囲する。

城主垣見一直は大垣城に入っており、城代垣見理右衛門が死守していた。

しかし、城主一直が大垣城で討ち死にしたという報を受け、開城した。

 

56 丹波 福知山城の戦い(京都府福知山市内記)

日時 慶長5年9月27日から10月18日

東軍 〇細川忠興  西軍 ×小野木重次

関ケ原の戦い後、細川忠興は、小野木重次の福知山城を攻撃し、自害に追い込んだ。

関ケ原の戦いの前哨戦である田辺城の戦いで、忠興の父藤孝が重次に降伏していたからである。

 

57 日向 宮崎城の戦い(宮崎県宮崎市池内町)

日時 慶長5年9月29日

東軍 〇伊東祐兵(すけたか)方 稲津重政  西軍 ×高橋元種方 権藤(こんどう)(たね)(もり)

東軍についた日向()()城の伊東祐兵(すけたか)は、家老の稲津重政に命じ、西軍についた日向(あがた)城主高橋元種の居城である宮崎城を攻撃させた。

城主権藤種盛は自害し、宮崎城は落城した。 

 

58 近江 水口岡山城の戦い(滋賀県甲賀市水口町水口)

日時 慶長5年9月30日

東軍 〇池田輝政  西軍 ×長束正家 

関ヶ原の本戦で敗北した五奉行のひとり長束正家は、居城の水口城に戻っていた。

しかし、池田輝政らに包囲されて降伏し、弟(なお)(よし)とともに自害した。

 

59 陸奥 岩崎城の戦い(岩手県北上市和賀町岩崎)

日時 慶長5年9月 から慶長6年5月

 東軍 〇南部利直  西軍 ×和賀忠親

南部利直は、和賀忠親が立て籠もる岩崎城を包囲する。

忠親は、逃れて伊達政宗を頼ったが、結局、自害に追い込まれている。

 

60  出羽 谷地城の戦い(山形県西村山郡河北町)

日時 慶長5年10月1日から11日

東軍 〇最上義光  西軍 ×上杉景勝方 下秀久

庄内から最上領に侵攻した尾浦城主下秀久は、西軍が破れたあと、退却が遅れて谷地城に孤立してしまう。

2500余の兵で籠城したものの、11日間を耐え抜いて降伏した。

 

61 豊後 佐賀関の戦い(大分県大分市佐賀関)

日時 慶長5年10月3日

東軍 〇中川秀成  西軍 ×太田一吉(かずよし)

西軍から東軍に転じた豊後岡城の中川秀成は、忠誠を示すため、西軍についたまま臼杵城主太田一吉を攻撃しようとする。

これに対して、太田一吉は佐賀関で中川軍を破ったものの、抗戦の不利を悟って東軍に降伏した。

 

62 因幡 鳥取城の戦い(鳥取県鳥取市東町)

日時 慶長5年10月5日

東軍 〇亀井茲矩(これのり)  西軍 ×宮部長房方 伊吹(さん)()衛門(えもん)

徳川家康の命を受けた鹿野城主亀井茲矩は、宮部長房の鳥取城を功略した。

長房が関ケ原の戦い直前、西軍に寝返ろうとしたからである。

 

63 陸奥 福島城の戦い(福島県福島市杉妻町)

日時 慶長5年10月6日

東軍 〇伊達政宗  西軍 ×上杉景勝方 本庄繁長

関ヶ原の本戦で西軍が敗北して上杉軍が劣勢になるなか、伊達政宗が突如として上杉景勝の重臣本庄繁長が守る福島城を攻撃した。

しかし、落城寸前まで追い込みながら伊達政宗は撤退する。

徳川家康の許可を得ていないことに負い目があったためという。

 

64 豊前 香春(かわら)岳城の戦い(福岡県田川郡香春町)

日時 慶長5年10月6日

東軍 〇黒田孝高  西軍 ×毛利勝信方 毛利定房

富来(とみく)城を攻略した黒田孝高は、いったん中津城に戻る。

しかし、徳川家康の命を受けてすぐさま、西軍についた毛利勝信の重臣毛利時定の子定房が守る香春岳城を攻撃し、降伏させた。

 

65 美濃 岩村城の戦い(岐阜県恵那市岩村町城山)

日時 慶長5年10月9日

東軍 〇遠山友政  西軍 ×田丸直昌方 田丸主水

岩村城主田丸直昌は大坂城に入り、城を家老の田丸主水に守らせていた。

遠山友政らが岩村城を包囲すると、田丸主水は直昌の命を受けて降伏開城した。

 

66 豊前 小倉城の戦い(福岡県北九州市小倉北区)

日時 慶長5年10月14日

東軍 〇黒田孝高  西軍 ×毛利勝信方 

香春(かわら)(たけ)城を接収した黒田孝高は、香春岳城の城兵を合わせ、毛利勝信の本城である小倉城を攻撃した。

このとき勝信は不在で、城兵の逃亡が相次いだという。

結局、10月14日に降伏開城した。

 

67 筑後 江上(えがみ)八院(はちいん)の戦い(福岡県久留米市城島町)

日時 慶長5年10月20日

東軍 〇鍋島直茂  西軍 ×立花宗茂

関ヶ原の戦いで鍋島直茂の子勝茂は西軍について、伏見城・安濃津城に攻めに参加していた。

しかし、父直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、西軍についた立花宗茂の柳川城を攻めることで徳川家康に忠誠をみせようとする。

このとき、宗茂が柳川城に向かう鍋島勢を江上・八院で迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。

 

68 筑後 柳川城の戦い(福岡県柳川市本城町)

日時 慶長5年10月22日から25日

東軍 〇黒田孝高・加藤清正・鍋島直茂  西軍 ×立花宗茂

柳川に着陣した黒田孝高は、加藤清正と合流し、鍋島直茂とともに柳川城を包囲する。

柳川城の立花宗茂は、孝高や清正らの降伏勧告を受け入れ、10月25日に開城。宗茂は一命を助けられた。

 

69 出羽 尾浦城の戦い(山形県鶴岡市大山城山)

日時 慶長5年10月

東軍 〇最上義光  西軍 ×上杉景勝方 

上杉景勝が撤退したあと、最上義光は上杉領であった庄内に侵攻。

尾浦城を落とすと、すでに降伏していた下秀久を城主とする。

 

70  出羽 東禅寺城の戦い(山形県酒田市亀ヶ崎)

日時 慶長6年4月11日から24日

東軍 〇最上義光  西軍 ×上杉景勝方 志駄義秀

庄内の平定を進める最上義光が、ついに東禅寺城を落とす。

義光は、長谷堂城の戦いに功あった志村光安を東禅寺城主とした。

 

〇 終わりに

 関ヶ原の戦いの本戦は良く知られているが、その前後には全国各地で、石田三成派の西軍と徳川家康派の東軍に分かれて本戦の他に70近くも行われ、戦国武将の領地争いの激しさを物語っている。

出羽では、最上義光と上杉景勝は因縁中で、その対立が慶長6年まで続いていた。

また、美濃 郡上八幡では旧領主であった遠藤慶隆が、家康に味方して旧領回復の許しを得て、郡上八幡城を攻撃する。

留守を預かった稲葉勢は多勢に無勢であったが、稲葉貞通(良通の嫡男。当時は美濃国内の大勢に従い西軍に加わり、尾張・犬山城に加勢として入城)の家康方へ属したことを知った遠藤慶隆は攻撃を中止したが、犬山から帰国した貞通と激戦となり、東軍の同士討ちとなっていた。

尚、貞通は戦後意外にも加増され豊後・臼杵城五万石を与えられていた。

両軍の勝敗の関係は、前述の八幡城の二つを除いて、本戦までを前半の43回と本戦から後半の25回に分けてみると、西軍から見て、前半は、攻撃のとき12勝5敗、防御のとき2勝24敗で、前半の計は14勝29敗。後半は攻撃したとき3敗、防御のとき22敗で25戦全敗であった。

ここで記述した戦いでは西軍14勝、東軍54勝となった。

これは、豊臣恩顧の武将らの本領安堵を願いつつの寝返りや、本戦の敗戦は大坂城から毛利輝元や豊臣秀頼の不出馬が大いに影響したことも重なり、このような結果となった。

             

 

 

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