令和5年6月4日
<竹中半兵衛公のふるさとを歩く>
竹中重門 生涯
天正元年(1573年)、誕生。(幼名は吉助といい、豊臣秀吉が名付けた)
父・重治の死後(1579年)、従叔父(父の従弟)の竹中重利の後見を受けて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、
天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍する。
天正16年(1588年)に従五位下丹後守、
翌天正17年(1589年)には美濃国不破郡に5,000石を授けられた。
文禄の役では名護屋城に駐屯し、慶長の役では軍目付として朝鮮へ渡海した。
戦後、戦功によって河内国内に1,000石を加増される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初主君は岐阜城主織田秀信だから、西軍に属して犬山城主・石川貞清を援助するが、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替えする。
そして他の主たる東軍の武将同様、みずからの居城である菩提山城を徳川家康に提供している。本戦では、幼なじみでもある黒田長政軍に合力して激戦地で奮戦し、
さらに戦後まもない9月19日(10月25日)伊吹山で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、家康から直筆の感状を受けた。
また、関ヶ原は竹中氏の所領であったことから、戦没者に対する供養料1,000石を下賜されるなど、幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩手山6,000石を安堵され代々継承した(のちに分家を輩出し5,000石となる)。
庶子の一人は長政との縁により福岡藩黒田家に重臣として仕えた。
戦後は竹中氏陣屋に拠点を移し、二条城の普請や大坂の陣にも嫡子・重常を連れて参加したが、寛永8年(1631年)に江戸にて死去する。享年59。墓所は東京都港区の泉岳寺
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林羅山に師事して文筆にも優れていた。死の間際の寛永8年(1631年)には、豊臣秀吉の伝記『豊鑑』を著した。(注:秀吉の誕生から筆を起こし、「文禄の役」を経て、文禄三年に秀吉が伏見城を築いて移り住むまでを書いたが、亡くなるところまでは書けなかった)
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『豊鑑』の筆をおくにあたって、重門はさらなる執筆に思いを残しつつも、達観した心境で、一首を記した。
「残しおく 筆の跡さへ 末遂げて あだに消えにし 秋の夕露」
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竹中氏は1万石未満の旗本でありながらも、交代寄合として大名と同じく参勤交代を許されている。
竹中氏陣屋跡
1
竹中氏陣屋の没革
竹中半兵衛重治没後慶長13年(1608年)、嫡子の重門がそれまで居館を西福村に置き、詰城としていた菩提山城を廃し、岩手に、まわりに水濠を巡らした館を構え、その周囲に家中屋敷を置き陣屋とした。
半兵衛の頃までは岩手城と呼ばれたが、江戸初期6,000石、後に1,000石を分地し、5,000石の旗本身分にとどまったため、陣屋と呼ばれるようになった。
現在の陣屋跡地は、小学校や幼稚園の敷地になっているが、重門が構えたがっしりした石垣と白壁の櫓門は陣屋の正面にある。
2 陣屋屋敷
坪割は、東辺40間5尺(74.23m) 北辺37間半(68.18m)、西辺36間1尺(65.75m)、南辺42間2尺(76.96m)、総坪数1,636坪半である。
3 濠(ほり)
濠は陣屋を取り囲んでおり、濠の一部は関ヶ原の戦いの後に賜った米1,000石を費用として完成したといわれ、千石濠の名が残っており、櫓門付近は石積がみられる。櫓門左側70尺(20m)は水濠である。右側214尺(64m)も水濠であったが、現在は埋め立てられている。
他の周囲については、陣屋の南側は小学校や幼稚園の敷地となり、遺構は残されていないが、北側の屋敷土塁や濠は残されており、近世陣屋遺構の好例として重要である。
4 櫓門(やぐらもん)
県指定文化財となっている櫓門は、間口6間(10.9m)、奥行き3間(5.45m)、旗本身分で全国唯一現存する城郭建造物とされている。
この櫓門は、関ヶ原玉の濱六兵衛の屋敷(玉城)から、杉山内蔵助(重元の妻の妹の婿・竹中半兵衛の叔父)が移設したといわれている。
明治に入り櫓門は明治新政府の「幕府建造物破壊令」により破壊の対象になったが、橋弥八郎氏などが「櫓門は菁莪学校の正門である」と主張し、その努力により明治8年に現在の岩手小学校の前身である「菁莪学校」の正門として位置づけられ、昭和20年前後まで櫓門の中は教室として利用されて今日に至った。
5
目隠しの石垣
櫓門の内側は、14頁の「岩手陣屋附近古圖」によると、攻めてきた敵を取り囲む枡型の石垣が構築されているが、現在では改変されてしまい、一文字土居としてわずかに痕跡が残っている。
6
調練場(馬場構)
約2,633坪の馬の調教を行った場所で、現在岩手小学校、幼稚園の運動場になっており、小学校校舎の敷地と運動場とは1.5m程度の段差がある。この遺構は陣屋を取り囲む濠
と調練場の跡を今に残すもので、濠を埋めた証拠として大雨が降ったときこの境から水が吹き出す。
7
南御殿
「竹中家家中屋敷圖(幕末)」には、調練場の南東付近に「南御殿」があったことが示されている。現在では跡地は不明であるが、古老の説によると、菁莪記念館の南側の駐車場が「南御殿」の屋敷の跡地で、今は、駐車場の西に「赤報隊顕彰碑」が建立されている。
この「南御殿」は、四代重常(1598年〜1664年)が、京都御所の御普請奉行のおり、御所に使われていた古材を持ち帰り建てたものといわれている。
菁莪記念館(資料館)
1 菁莪記念館
菁莪堂
江戸時代、幕府は朱子学を官学とし、各藩校では儒学を中心とした武士教育が盛んであった。
岩手の旗本竹中家においても、天保13年(1842年)13代当主竹中重明は、家中の子弟は勿論、近在の子弟も含め文武両道の教導のため、「菁莪堂」を創設し、家臣国井義睦をその堂主に任命した。
国井義睦は、通称:喜忠太、俳号を化月坊・花月坊・梅仙・春香園・山戸亭等と称し、16歳で江戸詰となった。
江戸では、剣聖山本竹鳳より天心独明流の刀弓術を学び、若くしてその奥義を極め、ついにはその道統を継承した。又同時に学問に励み、書道、朱子学等の研鑽を重ね、竹中家の当主から「芸術心掛出精之趣御褒詞」を賜り、後年、蕉門美濃派以哉派15世の道統を継承した。
竹中家が旗本ながら幕末維新の際、各方面に優秀な人材を輩出したのは、菁莪堂における文武両道の教育が実を結んだものといえよう。
2 菁莪の意味
「菁莪」という言葉は、中国古代の歌謡を集めた「詩経」の「小雅」のなかの一篇「菁菁者莪(せいせいしやが)」より採用された。
菁莪とは「材を育てることに楽しみ在り。君子よく人材を長育すれば、天下は治まる。」という意味に理解されている。
杖立神社
(1)里宮(遥拝所の借りの宮)
遠く離れた所から神仏を拝むための場所)
(2)本宮(菩提山麓)
日本武尊が伊吹山の荒神を退治のとき、神の怒りに触れ、深く傷ついて足元がおぼつかなく、杖をつき伊勢へ向かう。垂井町天然記念物に指定されている「杖立明神逆杉御神木」は、その時に突き立てた杖が逆さのまま、この地に根付き大木となったと伝えらされている。根本から5幹に分かれ、樹高30m、樹齢800年と推定される杉の大木で、枝が下向き猛々しく伸びている様は、日本武尊の勇ましさと重なっている。
ここから300mほどの西の山頂には、主祭神を日本武尊とする杖立明神がある。
五明稲荷神社と不破矢足
1 竹中半兵衛、松寿丸を匿う
(1) 天正5年(1577年)織田信長の中国攻めに先立ち、小寺官兵衛(後の黒田如水)は、その旗下に属していたが信長の武将で摂津有岡(伊丹)城主であった荒木村重とは既に親交があった。この時、官兵衛は嫡子松寿丸(後の黒田長政)を人質として、安土の信長のもとに差し出していたが、天正5年(1577年)の夏、信長はこの松寿丸を近江の長浜に送り、秀吉に預けた。
(2) 天正6年(1578年)11月、有岡城主荒木村重が突然謀反する。秀吉は村重と旧知の仲の小寺官兵衛一人を有岡城に派遣し、村重を説得して翻意を促そうとしたが、官兵衛は逆に捕らえられて城内の牢に閉じ込められてしまった。
この実情を知らぬ信長は、官兵衛に謀反の意志があったとして、当時人質であった官兵衛の嫡子松寿丸を殺すように秀吉に命じた。
竹中半兵衛重治は、近江、長浜城から松寿丸を連れ出し、極秘の中に自領の美濃岩手に同行している。随行者も少人数に限定した。
(3) この時、初めから松寿丸を匿う場所を五明の不破屋敷に定めていたのではないかと思われる。匿い先を竹中屋敷又は菩提山城とすることは、一般的には容易であったに違いない。然し、その行動は目立ち、例え家中に緘口令を敷いても、必ずその事は洩れ、その結果、大事かんこうれいを招くことになる。予めこの事を察知して、意表をついて、余り人目に付かない五明の地が選ばれたと考えられる。不破矢足の用心深さは、後に松寿丸の身代わりを立てたときに、すぐに松寿丸を女装させたという点からもうかがい知ることができる。
(4) この隠密の中身を知っているのは次の人たちである。
城主竹中半兵衛重治公 6家臣不破矢足 家臣伊藤半右衛門
(5) 不破矢足の墓碑・不破(喜多村)家の墓所
岩手五明に不破(喜多村)家の墓所がある。昔は墓所の中央に大きな松の木が2本生えて、雑草が生い茂り薄暗い場所であった。昭和20年代後期に不破(喜多村)家の子孫により木は切り倒され整備されてきれいになっている。墓所内の南側に、「西岸矢足居士」と記された不破矢
足の墓碑がある。今は、名古屋に居住されている喜多村まさ子様(分家の子孫)により守られている。
(6) 不破矢足の命名
「不破矢足」という名は、姉川の戦いで足に刺さった矢をものともせず、もう一人討ち取ったことを聞いた竹中半兵衛が命名した。
(7)垂井町登録天然記念物のイチョウの木
三木城攻略中に、反旗を翻した荒木村重を説得にあたった黒田官兵衛が捕らえられると、信長は人質であった嫡男松寿丸を殺そうとした。半兵衛は官兵衛の無実を信じ、松寿丸をこの地に匿った。後に官兵衛の疑いが晴れ、松寿丸が許されて、この地を離れるとき、この木を植えたと伝えらされている。
白山神社・松尾芭蕉句碑
山桃白山神社境内には町指定の天然記念樹である山桃が3本あり、中が雌株、前と奧が雄株である。常緑高木雌雄異株で6月〜7月に紫紅色の果実をつける。暖地に自生しこのあたりが北限とされる。
芭蕉の句碑観音堂の南に国井化月坊らが建てた芭蕉の句碑がある。
「此の山の悲しさ告げよところほり」
訳 このあたりのことが詳しい山菜採りにかって立派だった菩提山が廃墟になってしまった訳を知っているなら伝えておくれ。
菩提寺(伊福氏の氏寺)
菩提寺真言宗の寺院で天長元年(824年)僧空海が、豪族伊福氏の要請によりこの地を訪れ、菩提寺を開基したといわれている。また、天長5年(828年)10月に定額寺(官寺)となる。
寺には、永正4年(1507年)の銘が入った「鰐口」わにぐち (垂井町指定工芸品)がある。
ここには、 観音堂33体の観音像が祀られている。
天文年間に住僧祐運により再興された山門は江戸中期のもの。
八幡神社(竹中氏の氏神)
(1)祭神 応仁天皇
(2)永禄2年(1559年)竹中重元が菩提山に砦を築くとき、大御堂より当社を奉還し、氏神とする。
(3)寛永17年(1640年)3月 重常により若宮八幡大菩薩の棟札がある。
(4)元禄3年(1690年)8月 主膳重栄による「奉造営不破郡八幡宮社」の棟札があり、現在地建て替えたものと思われる。
禅幢寺・半兵衛公の墓
禅幢寺は、明応3年(1494年)薩摩国金幢寺の僧盛庵正碩和尚が開基した。宗旨は曹洞宗。
羽柴秀吉の軍師として活躍した半兵衛氏重治公は、天正7年(1579年)播州三木の陣で病没。
当寺の重治公の墓は、天正15年(1587年)父の菩提を弔うため嫡男重門が三木から移葬したものである。
現在の本堂は、重治公の孫重常が寛文3年(1663年)に祖母の得月院の遺財を基にして建立したものである。
竹中家の家紋 九枚笹と黒餅
別名「竹中笹」と言われる笹をモチーフにした、「竹の中身」という苗字をそのまま現した家紋である。この紋は、父竹中重元のお墓の屋根にある。
写真右
戦場で家紋を描くとき簡単に描けるのも「黒丸=黒餅」であるという由来とも言われている。さらに「黒餅」は「石持(コクモチ)」とも読めることから、武士の所領、いわゆる「石高」を増やせることに繋がる語源の形として重宝される。竹中半兵衛公のお屋根にある。
写真左
神田柳渓 かんだりゆうけい
柳渓は、寛政5年(1793年)(寛政8年(1796年)説あり。)竹中家の家臣神田孟察の3男として生まれ、名を充、号を南宮とよんだ。
神田家は、もと伊予国大洲藩主加藤家の家臣で、天和2年 (1862年)に加藤家の子重榮が竹中家7代目の養嗣子として迎えられたとき、重榮にしたがって岩手に移り住んだ。
柳渓は、14歳のとき彦根の数江元丈について儒学と医学を学び元丈の養子となったが、まもなく元丈の家を去り京都に出て産科と内科を学んだ。
その後、各地で西洋医学を修め、また、漢詩文の大家であった頼山陽の客人となり儒学、詩学、漢詩文、書等を学んだ。
ここで、篠崎小竹、大塩平八郎等当時の一流学者、志士等との交流を深めた。
その後、神田家からの要請により29歳で岩手に帰り、神田姓に復し、医者を業とした。また、居宅を「南宮山房」と称し私塾を開いた。私塾からは長原武、神田孝平、渓毛芥、三上藤川等の逸材を輩出した。
一方、美濃詩壇の村瀬藤城、江馬細香や京都の柳川星巌、牧百嶺らとも交流を深め、特に頼山陽との交流は深く、お互いに京都と岩手を何度も訪れている。
また、白鷗社の同人として漢詩壇の重鎮であったが、嘉永4年56歳で病没し、墓は宮ノ前の祥光寺にある。
著書に、「南宮詩鈔」、「蘭学実験」、「薬性論」等がある。
神田孝平(1830〜1898)
神田孝平は、今から150年ほど昔、日本が江戸時代から明治時代という新しい時代に移り、文明開化という近代化を目指す政策を進めていく中で、西洋の新しい知識を身につけ、現代につながる新しい制度のもとを作り上げた人物です。
代表医的な功績に明治維新の三大改革のひとつ地租改正の原案を作成したことがあげられます。また、数学、考古学、天文学、文学など幅広い分野でも活躍がみられます。
明治の偉人、福沢諭吉にも並び称されるほどの学識と功績を残した郷土の誇りである偉人です。
孝平は、幼少時「孝平」を「こうへい」と呼び、名を孟恪、号は淡崖、有不為楼、唐通と称した。
天保元年(1830年)竹中家の家臣神田孟明の子として生まれ、孝平3歳のとき、父孟明が死去したため、少年期は親代わりの叔父である神田柳渓に教育を受け、国井喜忠太義睦に
読み書きを習った。
17歳のとき京都へ出て、伊奈遠江守に仕え、牧百峰に漢学を学んだ。
その後一時帰郷したが、嘉永6年(1853年)のペリーの浦賀来航に衝撃を受け、江戸に出て杉田成卿、伊東玄朴、手塚律蔵らに蘭学を学んだ。この頃長崎に遊学し、福沢諭吉と親しくなっている。また、江戸では桂小五郎(後の木戸孝允)とも親交を結んでいる。
33歳で幕府の蕃書調所(ばんしよしらべどころ)(後の東京大学)で数学の教授となり数学と蘭学を教えた。慶応2年(1866年)には明治政府の開成所(蕃書調所改め)の教授となり、明治元年には開成所頭取となっている。その後、集議院判官、枢密院権大使、兵庫県令、元老院議官、貴族院議員等を歴任し、特に地租改正に大きく貢献した。
また、文部少輔在任中は、文部省の文部行政の確立に尽力し、東京大学の創立にも大きく寄与し、東京学士会館の創設に参加し、副会長・幹事を歴任した。
孝平は、郷土岩手の人材育成にも大きく寄与し、竹中家出身の子弟の世話や菁莪学校への支援を惜しまず、多数の図書とともに五千円(当時の大臣の1年分の給与に匹敵)という多
額の寄付をしている。
明治9年の菁莪学校の校舎の完成に際し「菁莪学校」の扁額を贈っている。それは、現在、岩手小学校の玄関に懸けてある。
明治31年7月4日、華族となり男爵を授けられたが、翌5日、6
9歳の生涯を終えた。東京谷中の天王寺に葬られている。法名・「神性院淡崖孝平
大居士」
長原孝太郎
元治元年(1864年)竹中家家臣長原武の長男として生まれ、号は止水。5歳で父を亡くし、母・貞(大垣藩士・宮田悌四郎の娘)の大垣の実家に身を寄せた。12歳で兵庫県令神田孝平に引き取られ、神田孝平が元老院議員として上京したため東京へ移った。そして母の希望もあり、医学の道に進むため東京大学予備門に進学したが、画家への希望が捨てきれず同校を退学し、小山正太郎の不同舎で洋画を学んだ。
この頃、原田直次郎と出会い孝太郎の後の作風に大きな影響を与えた。また、黒田清輝の私塾天真道場で洋画を学び、黒田の推挙により東京美術学校の助教授に就任している。その後、白馬会、東京博覧会、文展等高名な展示会に出展し入賞を重ね、東京美術学校の教授、永久無鑑査となり、その後、帝国美術院展覧会審査員となっている。
孝太郎は、画才を多方面に発揮し、与謝野鉄幹、坪内逍遙、伊良子精白、森鴎外、島崎藤村らと交流し、本の装丁、挿絵、表題、図案等を描いている。また、明治神宮聖徳絵画記念館
に奉納した「陸海軍大演習御統監の図」は、制作中に孝太郎が没したので、子息の担が引き継ぎ完成させた。昭和5年、東京の自宅で没した。66歳
竹中家家臣の墓碑
(1) 所太郎五郎(竹中善左衛門重廣)
永禄7年(1564年)稲葉山城を奪った18人のうちの一人
(2) 大野是什坊(蕉門美濃派以哉派六世)
安永9年(1780年)道統継承
大野是什坊=傘狂、朝暮園(大野瀬兵衛親芳)さんきようちようぼえんおおのせべえちかよし
岩手竹中家家臣
寛政2年(1790年)3月10日、洛東の雙林寺において、らくとうそうりんじ
祖翁の百回忌法要を勤修している。
素信尼、菊舎は門人
遺稿「世の花」「傘狂責」「道しるべ」
さんきようせき
・雲るほどよい空奪う桜かな
・鶯や雪も解けねばならぬ声
・水上は紅葉照らして瀧白し
・宵の間に月はわたるや橋涼し
・朝露の干ぬ間や市の初なすび
・初雪やそれさえたらぬ貯ひ酒
寛政5年(1793年)12月17日没
(3) 国井花月坊(以哉派十五世)
安政4年(1857年)道統継承
国井化月坊=梅故、春香園(国井喜忠太義睦)ばいこしゆんこうえんきちゆうたよしむつ
岩手竹中家家臣
江戸詰の間に山本竹鳳に天心独明流の刀弓術を学び、そちくほう
の道統を継承した。菁莪堂の文武の師を仰せつけられ、後進の指導に大きく貢献している。
遺稿「誉の扇」「秋の風」
・花に蝶我も机に寝たそうな北野獅子庵
・名月や浮世は稲の穂の匂ひ禅幢寺
・花心さまして雲にほととぎす敷原観音寺
・世は夢ぞ南無阿弥陀仏ほととぎす下町徳法寺
・月のあと残した藪の梅白し菁莪記念館(61頁)
・一二丁笠わすれたる清水哉垂井本龍寺
明治3年(1870年)没
(4) 花村尚禮(三観嶺雪渓)しようれいせつけい
菁莪堂で学問や武術を学んだ。その後、江戸に出て刀弓術を山本竹鳳に、学問を佐藤一斎に学んだ。岩手に戻ってからは菁莪堂で先生として教育に尽力している。
また、竹中家の軍の総指揮官として軍兵の訓練をした。
しかし、重固が朝敵となった後は、専ら趣味とする俳諧と囲碁を楽しみ、岩手俳壇の中心人物として晩年を過ごした。
なお、大野是什坊の100回忌を、垂井本龍寺で執り行っている。
・塚に来て鳥も経よむ恩会かな
・空色も浅黄になりぬけさの秋
明治29年(1896年)没
(5) 長原武(号止戈)しか
幼少の頃より、漢学を神田柳渓に、武道を国井喜忠太について修めた。その後、30歳の頃世情不安の中を江戸遊学する。そこで山鹿流兵学の流れを汲む山鹿素水の塾に入門した。
教授として、安積艮斎(あさかごんさい)・佐久間象山等が、塾生としては吉田松陰・小林虎三郎等がいた。
松陰は、兄の杉梅太郎宛ての書簡に、「長原はすこぶる読書の力もこれあり面白く候。しかし、気力は乏しく御座候」。とあり、また、獄中からの藩友久保清太郎宛には
「長原武その人となり善良謹厚にして兵学を好み候。かつ、久しく都下に寓(ぐう)し候こと故、万端巧者なり。
よろず御相談なされ候てよき人なり。もし、しいてその短を論ぜば狂豪の気なし。」と記している。
松陰は、武の学問を非常に高く評価している反面、或いは、それ故というべきか、「気力にとぼしい、狂豪の気なし」等と述べている。これは、必ずしも武の性格のみによるものではなく、当時の長州藩の討幕思想と、旗本竹中家の佐幕思想との違いも関係しているのでは。また、
松陰は武に、長州から江戸へ遊学する知人や門下生の処遇の依頼をたびたびしていて、2人の親交の深さがしのばれる。
松蔭は、武を訪ねて大垣まで来たが、岩手に確認したら、武は江戸に行ったとのことで、岩手での会合はならなかった。
明治元年(1868年)7月7日没