平成12年12月12日

<美しい数学の話>

第31話 「フェルマーの最終定理」

 N01:2000年11月14日(火)<私の一日からの抜粋です>
 今日から「ディオファントスの算術」の話から、「フェルマーの最終定理」への歴史的な話を書きます。西暦300年頃、アレクサンドリアのディオファントス(246〜330)は『算術(Arithmetica)』全13巻をギリシャ語で書き残す。代数的な問題とその解答からなっていました。
1453年:ビザンチウムが陥落し、多くのギリシャ語の書物がイタリアなどに待ち出される。ただし、すでに全13巻中6巻しか残っていなかったらしい。
1463年:レギオモンタヌスがヴァチカンで、ビザンチウムから流出してきた『算術』を発見。ラテン語への翻訳を試みるが、レギオモンタヌスが死去し、実現しなかった。
1572年:ボムベルリが『代数学』を刊行。その中で『算術』の内容を紹介。
1585年:ステヴィンが第4巻までのフランス語訳を刊行。
1621年:バシェがギリシャ語原典とラテン語の『算術』を注釈付きで刊行。
1630年:フェルマーはバシェ版の『算術』に、さまざまな書き込みを入れる。「フェルマーの最終定理」も、その内の1つである。
1670年:フェルマーの息子サミュエルがバシェ版の『算術』を再版。父の書き込みを付録としてつける。フェルマーの業績が一般に知られるのは、この後である。
1973年:アラビア語訳の3巻(9世紀の物)が新たに発見される。全13巻中9巻が現存している。
 フェルマーが愛読したバシェ版の『算術』(ラテン語に翻訳)には、200題弱の不定方程式の問題が集められている。フェルマーはこれに48もの書き込みをしている。明日はどんな書き込みをしたか書くことにしています。

N02:2000年11月15日(水)
 フェルマーが愛読したバシェ版の『算術』(ラテン語に翻訳)には、200題弱の不定方程式の問題が集められている。フェルマーはこれに48もの書き込みをしている。例えば、直角三角形で2辺の和と斜辺のいずれもが平方数になるもので、最小のものもフェルマーは残している。 それは、4565486027761,1061652293520,4687298610289 の3数であるとね。誰かパソコンでフェルマーに成り代わって、検証してください。

N03:2000年11月16日(木)
 フェルマーが愛読したバシェ版の『算術』(ラテン語に翻訳)の中に書き残したものの中で、大変興味深く重要なものの1つに「2平方の定理」がある。これは「4で割ると1余る(4n+1)の素数は、2つの平方数の和で表される」つまり、5=1+4,13=4+9,17=1+16,29=4+25という具合である。これとは逆に「4で割ると1足りない(4n−1)素数は、2つの平方数の和では表せない」という命題も、フェルマーは残している。
 ところで、2より大きい素数は必ず(4n+1)か(4n−1)のどちらかの形になるから、この定理はすべての素数の一般的な定理といえる。他の定理については証明の道筋の示唆はしても、完全な証明は残さなかったフェルマーが、2平方の定理については、珍しく証明を残している。「無限降下法」という数学上のテクニックを使ったものであるが、これはフェルマーが編み出した方法で、フェルマー自身はいつも「私の方法」と呼んでいた。「無限降下法」は一種の「数学的帰納法」であり、当時としては画期的なものであった。これとは、別にフェルマーは「すべての自然数はm個のm角数で表される」ことも『算術』の余白に書き残している。これも確か未解決問題の1つになっています。m角数とは何であるかは明日書くことにします。是非、この証明にも、青春をかけてみては いかがですか。

N04:2000年11月17日(金) 
フェルマーは「すべての自然数はm個のm角数で表される」ことも『算術』の余白に書き残している。ここで二角数とは、自然数1,2,3,・・・、のことですし、三角数とは、1,3,6,10,15,21,・・・、と言います。さらに、四角数とは、1,4,9,16,25,・・・、の平方数を指します。五角数とは、1,5,12,22,35,・・・、ですし、六角数とは、1,6,15,28,45,・・・、です。この数列の階差数列を考えていただければ、お分かりになるはずです。後は、いくつかの自然数はm個のm角数で表されることについては、読者の皆さんに期待しましょう。
 もともと、「すべての自然数は4つの四角数の和で表される」という命題は古くからあった。フェルマーはこれを拡張して、先ほどの図形数(m角数)と自然数の間に潜む不思議な関係を見つけだしたのです。さて、四平方の定理を紹介します。「任意の自然数nは、必ず4つの平方数(0も含む)の和で書くことができる」。例えば、1=1^2,2=1^2+1^2,3=1^2+1^2+1^2、4=2^2、5=2^2+1^2,6=2^2+1^2+1^2、・・・、となっていきます。これも、ディオファントスがすでに考えていたものだが、証明されたのは、1772年のラグランジェによるものでした。明日は、「フェルマーの小定理」の書き込みをお伝えします。

N05:2000年11月19日(日) 
 さて、バシェ版のディオファントス『算術』への書き込みは、1659年、フェルマーがツゥールーズ高等法院時代の同僚、カルカヴィに宛てた手紙にも「フェルマーの小定理」にも書いてありました。余談だが、この手紙には、「数論に対して私が抱いた夢の総決算」とのフェルマーによる一文も見られ、1665年に没したフェルマーは、これを遺書に書くつもりで綴ったかもしれません。それでは、「フェルマーの小定理」ですが、【自然数pが素数であり、pとaが互いに素であるとき、a−aはpで割り切れる】というものです。しかし、例によって、フェルマーは証明方法を残していない。証明を最初に残したのは、ライプニッツであり、その後、多くの数学者によって、様々な証明方法が編み出されている。「フェルマーの小定理」は数論の世界では、非常に重要なものとされている。それは、この考えの延長上に群論に関わる多くの数学的な事項が含まれていることや、定理のなかに素数が必ず持つ一般的な性質が隠されていることからです。明日は、「フェルマーの最終定理」の登場です。お楽しみに!
 実は、「フェルマーの小定理」はa−a=(ap-1−1)×aと表すことができます。しかし、aとpは互いに素なのでaはpでは割り切れない。よって、「ap-1−1は必ずpで割り切れる」と言い換えられます。これを、合同の記号で書くと
a^p≡a(mod p)
a^(p-1)≡1(mod p)は同じことになります。太郎さんの表現が、誤解を生む形で申し訳ありませんでした。累乗の指数の表現が統一していないことも、原因ですね。

N06:2000年11月20日(月)
 フェルマーが残した超難問に「フェルマーの最終定理」があります。1630年代、バシェ版のディオファントス『算術』の第2巻、第8問を覗いてみます。「与えられた平方(z)を2つの平方(x+y)に分ける方法」が書いてあります。
 与えられた平方zを、仮に16とおくと、分ける平方のうち1つをxとすると、もう一つは(16−x)となる。ここで、一方の解(16−x)が(mx−√16)2に等しいとして、m=2とすると、
16−x=(2x−√16) 展開すると、
16−x=4x−2・2√16x+16 
16−x=4x−16x+16
5x=16x、x≠0なので、x=16/5 となり、
=256/25、y=144/25 
よって、結果は 16=(16/5)+(12/5) となる。
 ここではm=2を例にとったが、どんな自然数をとっても、同じ結果が得られる。また、この場合、zを16とおいたが、25や36など平方数なら同様なことがいえるさて、ここの余白に、フェルマーは一体どんな注釈を書いたかは、明日書くことにします。最後に、「驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを記するには、余りにも狭すぎる」と、後世まで引き継がれた有名な文で終わっていました。もし、次が真っ白なページだったら、フェルマーは一体何と書いたか興味がありませんか。

N07:2000年11月21日(火)
 バシェ版のディオファントス『算術』の第2巻、第8問にフェルマーは次のような書き込みをしました。「これに反して、立方を2つの立方に、2重平方(4乗の数)を2つの2重平方に分けること、そして一般に平方より大きな任意のベキを2つのベキに分けることはできない。このことの真に驚くべき証明を私は得たが、それを書くには、この余白はあまりにも狭すぎる。」とね。
これが、有名な「フェルマーの最終定理」である。現代風に書けば、「自然数n≧3対して、x+y=zを満たす自然数x、y、zは存在しない。」となる。問題の意味は簡単明瞭。中学生でもたやすく理解できる。こういった問題のわかりやすさ、フェルマーの他の書き込みがほとんど正しかったこと、そして「真に驚くべき証明」という興味をそそるフェルマーの言い回し方から、多くの人々がこの証明に取り組んだ。だが、問題は容易に解けず、360年にわたって、多くの数学愛好者が敗北を喫することになる。ただ、彼らの努力がすべて徒労だったわけでもない。この定理を解くための過程で、多くの新しい数学上の発見がなされ、それが新しい理論構築の足がかりともなった。「フェルマーの最終定理」は、こういった意味でも非常に価値あるものでした。
明日は、間違いだったフェルマーの書き込みをお話します。

N08:2000年11月22日(水)
 さて、バシェ版のディオファントス『算術』へのフェルマーの書き込みはほとんどが正しいものでしたが、本人が気がつかないで、間違った書き込みもありました。数論の花形は、やはり素数です。多くの数学者が魅了し、とりこにしてきた素数。フェルマーも、素数には多いに興味を持っていました。「常に素数を与える式」を探し、フェルマーが見いだしたのが、フェルマー数、すなわち、「(2+1」です。2nは、n=0から順に、1,2,4,8,16,32,・・・ だから、順に並べると、
=2+1=3  
=2+1=5  
=2+1=17  
=2+1=257  
=216+1=65537  
=232+1=4294967297・・・ 
と、続く。実際、初めの5つは素数であったがのだが、・・・F=232+1=4294967297 は
4294967297=6700417
×641と因数分解できることをオイラー(スイス生まれ、1707〜1783)が見つけてしまったのです。
それどころか現在までは、F、FもFもFも、それに続く多くのフェルマー数が合成数だということが分かっている。フェルマーがした数少ない間違いの1つです。明日、フェルマー数のFが合成数と発見したオイラーの考え方を書く予定です。また、このフェルマー数と正多角形の作図問題が関係してきます。このあたりをも載せたいですね。

N09:2000年11月24日(金)
オイラーは、フェルマー数のFが合成数と次のように発見しました。まず、641=5+2=5×2+1 である事実に目をつけた。
さらに、F5=232+1=228×24+1 とかける。
ところで、5×228=5×24
×=(5×24 
だから、5×228−(5×2=0 となる。
これをFの両辺に足すと・・・
+0=228×2+{5×228−(5×2}+1
    =228×(5+2)−(5×2}+1
    =228×(641)−(641−1)+1
ここで、分かりやすくするために、641=aとおく。
=228×a−(a−1)+1
  =228×a−(a−1)4+1
 =228×a−(a−4a+6a−4a+1)+1
 =228a−a+4a−6a+4a
  =a(−a+4a−6a+4+228)・・・ここの段階で合成数とわかる。
  =641(−641+4×641−6×641+4+228)
  =641
×6700417
 ここで、ガウスが(1777〜1855)若いときに、「奇素数pにおいて、正p角形が定規とコンパスだけで描けるのは、
pが(2+1の形の素数に限る」と結論でけたのです。
 太郎さんは、高校生のとき、この問題を考えて、方程式x17−1=0の解を求めようと挑戦しました。
あのときの紙面が残っていればですが、1の単位円周上に正17角形を書いて、cosθ=tといて、tの8次方程式の解を見つけようとしました。ガウスは、このx17−1=0の1つを上手に処理して求めています。
是非、皆さんも若いときに、高校卒業後も考えてみたい問題をみつけておいてください。高校生活が明るくなりますよ。

10:2000年11月27日(月)
有名な「フェルマーの最終定理」は「自然数n≧3対して、x+y=zを満たす自然数x、y、zは存在しない。」です。フェルマーが1630年頃、バシェ版のディオファントス『算術』の第2巻、第8問に「このことの真に驚くべき証明を私は得たが、それを書くには、この余白はあまりにも狭すぎる。」と書き込んでいます。ところが、1640年、フェルマーは友人のメルセンヌ(1588〜1648)に手紙の中で、n=4を証明しています。(多少、不備があるようでした。)この証明方法が、彼が編み出した「無限降下法」を使っています。ここで、今日は「無限降下法」を紹介します。
「無限降下法」とは背理法の一種です。『T』成り立つ数n=aがあると仮定する(aは自然数)。『U』n=kが成り立つと仮定して、n=kで成り立つことを証明する。(k>k
『T』と『U』より、aをkに入れることによって、k>k>k>k>・・・と無限に続く自然数で成り立つことになる。
しかし、自然数は1以上であり、無限に小さい自然数というのは明らかに矛盾している。従って、aに相当する自然数は存在しない。
よって、命題は成り立つ。
 それに対して、「数学的帰納法」も比較する意味で書きます。
『T』n=a(aに数を入れる)が成り立つことを証明。
『U』n=kが成り立つと仮定して、n=kで成り立つことを証明する。(k<k
『T』と『U』より、aをkに入れることによって、k<k<k<k<・・・と続く数をnに入れて
すべての自然数で成り立つことが証明できる。

N011:2000年11月28日(火)
 フェルマーが愛読したバシェ版の『算術』(ラテン語に翻訳)には、200題弱の不定方程式の問題が集められている。フェルマーはこれに48もの書き込みをしている。例えば、直角三角形で2辺の和と斜辺のいずれもが平方数になるもので、最小のものもフェルマーは残している。
 それは、4565486027761,1061652293520,4687298610289 の3数であるとね。誰かパソコンでフェルマーに成り代わって、検証してください。と11月15日に書きましたが、「清川(kiyo)」さんから報告がありました。【いつもお世話になっています。清川(kiyo)です。 十進ベーシックでプログラムを組んで検索しました。コピー&ペーストで実行出来ると思います。一番小さいことが確認出来ました。二番目も確認できました。検索範囲を広げればまだまだありそうです。理論的には無数にあるのでしょうか?。今後とも宜しくお願いします。
1 番
M = 2150905 N = 246792
A = 4565486027761
B = 1061652293520
C = 4687298610289
Cの平方根 = 2165017
A+Bの平方根 = 2372159
2 番
M = 19358145 N = 2221128
A = 369804368248641
B = 85993835775120
C = 379671187433409
Cの平方根 = 19485153
A+Bの平方根 = 21349431
<2回目の報告です>
いつもお世話になっています。清川(kiyo)です。十進ベーシックの1000桁モードで検索の範囲を広げてみました。3番目が見つかりました。
3 番
M = 53772625 N = 6169800
A = 2853428767350625
B = 663532683450000
C = 2929561631430625
Cの平方根 = 54125425
A+Bの平方根 = 59303975 】
太郎さんは、当時フェルマーがこんな凄い計算をしていたとは驚きですし、現代のコンピュータにもおなじように驚嘆の気持ちをもちます。清川(kiyo)さん、本当にありがとうございます。

N012:2000年11月29日(水)
 さて、古代から数学者が興味を最も惹いてきたのが、素数です。しかし、数学者の執拗な挑戦にも関わらず、新しい素数を次々に生み出すような式は未だに発見されていません。フェルマー数が発表した、「(2+1」はn=5で破綻しました。
 一方、オイラー(1707〜1783)が見つけた P=n+n+41 のn=0から順に整数を代入すると、41、43、47、53、61、・・・と、n=39までは素数です。しかし、n=40はP=168(41)となり合成数になります。

N013:2000年11月30日(木)
今夜、「清川(kiyo)さんから、フェルマーが書き込んだ「直角三角形の斜辺以外の二辺の和が平方数となるための条件」について再度報告がありました。【 いつもお世話になっています。清川(kiyo)です。 別に角度から、プログラムを組んでみました。フェルマーは一般解を求めているのでしょうか。前回のプログラムと今回のをうまく組み合わせると一般解に辿りつけそうな気がします。今後とも宜しくお願いします。
M = 4368 N = 113
A = 292191105776704
B = 67945746785280
C = 299987111058496
C の平方根 = 17320136
A+Bの平方根 = 18977272
M = 8736 N = 226
A = 4675057692427264
B = 1087131948564480
C = 4799793776935936
C の平方根 = 69280544
A+Bの平方根 = 75909088
M = 13104 N = 339
A = 23667479567913024
B = 5503605489607680
C = 24298955995738176
C の平方根 = 155881224
A+Bの平方根 = 170795448
M = 17472 N = 452
A = 74800923078836224
B = 17394111177031680
C = 76796700430974976
C の平方根 = 277122176
A+Bの平方根 = 303636352】
<水の流れ>今、持っている文献には、最小の組しか書いていませんので、多分一般解は知らないと思われます。

N014:2000年12月2日(土)
 1640年、フェルマーは友人のメルセンヌ(1588〜1648)に手紙の中で、n=4を証明しています。(多少、不備があるようでした。)この証明方法が、彼が編み出した「無限降下法」を使っています。では、紹介します。
『以後引用』フェルマーはx+y=zに自然数解(x、y、z)がないことを証明するために、まず、x+y=zを考察した。「x+y=zに、自然数解(x、y、z)がある」と仮定し、次ぎに「平方数が互いに素な2数の和で表されるとき、
その2数はともに平方数である」という命題を利用した。
これによって(x、y、z)より小さな自然数(x、y、z)の存在がわかる(z>z)。
この繰り返しによって、z>z>z>z・・・と、いつまでも自然数の列が続くことになるが、それはあり得ない。
よって、x+y=zは解を待たず、x+y=(z、すなわち、x+y=zも解を持たないことが分かる。フェルマーが得意とした無限降下法を使った証明である。
 フェルマーが残したのは指数が4の証明だけだが、これを拡張していくことで、指数が4の倍数の場合はすべて証明される。また、合成数は必ず素数の倍数だから、その元となっている素数が指数である場合を証明すれば、合成数が指数の場合の「フェルマーの最終定理」は自動的に証明されるわけです。
そこで残るのが、3,5,7,11,13,・・・、といった奇素数の場合だけである。最初の奇素数3については、オイラーが1753年にゴールドバッハに宛てた書簡の中で述べている。ただし、証明が発表されたのは、1770年にオイラーが「代数学」を刊行したときである。『引用終わり』では、明日、n=3の証明を段階をおって紹介します。

N015:2000年12月4日(月)
「八木」さんから、「直角三角形の斜辺以外の二辺の和が平方数となるための条件」について、報告を受けました。ご覧ください。【直角三角形で直角をはさむ2辺の和が平方数で斜辺もまた平方数になる三角形についてフェルマの示した解の各辺をa,b,cとすると、この三角形と相似な三角形の各辺をa,b,cとすれば
=a*n^2、b=b*n^2、c=c*n^2となります。
これは自明の一般解ですが今までに報告された解はすべてこれに属しているようです。、各辺の比が異なる別の解は果たしてあるのでしょうか。ちなみに清川様の最初の報告はn=1、9、25の場合に相当し2回目の報告はn=8、32,72,128に相当するものと思われます。また、私が求めたいくつかの解も自明の一般解の一部がもとまるにとどまりました。】
 さて、フェルマーの最終定理で、n=3の証明はオイラーが、1753年に、ゴールドバッハ宛てた書簡の中で述べています。ただし、証明が発表されたのは、1770年にオイラーが「代数学」を刊行したときです。
オイラーの証明の基本的な方法は、フェルマーがn=4の場合を証明したと同様、x+y=zに自然数解があると仮定して、最終的には無限降下法を使うものでした。証明の段階は8段階です。順にお知らせしていきます。
『段階1』x+y=zに、xyz≠0となる整数解があると仮定する。ただし、xとyは互いに素とする。『段階2』は明日書きます。

N016:2000年12月5日(火)
 実は、フェルマーのことを書いていく中で、「すべての自然数はm個のm画数で表される」と、『算術』の余白に書き残していやのがきっかけでした。この証明はどこかで、誰かが示しているのでしょうか。きっと、数学的帰納法で出来るのかな。
フェルマーの最終定理で、n=3の証明:『段階2』:x、y、zの3数は1つだけ偶数で、残り2数は奇数である。∵ xとyは互いに素なので、@どちらも奇数か、Aどちらかが奇数で、どちらかが偶数、だといえる。そして、@の場合はzは偶数、Aの場合はzは奇数といえる。ここでは、x、yは奇数、zは偶数として証明する。明日は、『段階3』に行きます

N017:2000年12月6日(水)
 フェルマーの最終定理で、n=3の証明:『段階3』:x+yを、aとbで表す。
1/2(x+y)=a、1/2(x−y)=b とおけば、
x+y=2a、x−y=2b となるから、x=a+b、y=a−b
x,yは奇数なので、a、bのどちらかが奇数で、どちらかが偶数である。
式よりx+y=(a+b)+(a−b)=2a(a2+3b
この2a(a+3b)が立方数でなければ、n=3とき、フェルマーの最終定理は成り立つ。明日は、『段階4』に行きます。

N018:2000年12月7日(木)
「ねこ」さんからも入っていました。例のフェルマーのことを書いていく中で、「すべての自然数はm個のm画数で表される」と、『算術』の余白に書き残していやのがきっかけでした。この証明はどこかで、誰かが示しているのでしょうか。
これに対しての報告です。ご覧ください。
【「すべての自然数はm個のm画数で表される」について調べてみましたのでご報告します。
m=4はオイラー・ラグランジュの定理(g(2)=4)そのもので、1772年に証明されました。
m=3については、3平方和定理「8n+7の形の数は3個の平方数の和では表されない」を用いて、
ガウスが1796年に証明しています。
m≧5については、1813年にコーシーが証明し(*1)、1816年にルジャンドルがこの証明を簡略化しています(*2)。
証明された年が間違えているかもしれませんが、ご容赦ください。
 (*1) コーシー全集の(2),VI, pp.320-353に再録された。
 (*2) 「整数論」第2版の補遺にある。

N019:2000年12月8日(金)
 n=3とき、フェルマーの最終定理は成り立つの『段階4』:2a(a+3b)が立方数なら、aは4で割り切れる。
2a(a+3b)は2を含むので、立方数なら必ず偶数であり、2=8で割り切れる。ところがa、bのどちらかが奇数なので、(a+3b)は奇数である。よって、2aは8で割り切れ、a/4は整である。明日は、『段階5』に行きます。

N020:2000年12月9日(土)
 n=3とき、フェルマーの最終定理は成り立つの『段階5』:ここで、2つに分けます。場合A:2aと(a+3b)が互いに素(つまり aが3で割り切れないとき)。場合B:2aと(a+3b)が公約数を持つ(つまり aが3で割り切れるとき)。

N021:2000年12月10日(日)
n=3とき、フェルマーの最終定理は成り立つの『段階6』:2aと()が互いに素で、積が立方数だから、それぞれが立方数である。つまり、2a=立方数、a+3b=立方数となる。a+3bを因数分解して
+3b=(a+√(−3)
×b)(a−√(−3)×)=立方数
ここで、(a+√(−3)
×b)=(t+√(−3)×u)、(a−√(−3)×b)=(t−√(−3)×u)とおく。
すると、a+3b=(t+3u
これから、a=t−9tu=t(t−9u)と、b=3tu−3u=3u(t−u)がわかる。
 ところで、bは奇数だからuも奇数といえる。さらに、t−uが奇数なので、tは偶数である。
さて、核心部分に入ってきました。明日は、『段階7』に行きます。

N022:2000年12月11日(月)
n=3とき、フェルマーの最終定理は成り立つの『段階7』:a=t−9tu=t(t−9u)を変形する。
a=t(t−9u)=t(t+3u)(t−3u)となる。2aは立方数なので、2t(t+3u)(t−3u)も立方数。ところが、tは偶数であり、aが3で割り切れないことからtも3では割り切れない。
これらより、2t、t+3u、t−3uの3つの因数は互いに素であり、いずれも立方数でなければならない。そこで、
t+3u=x、t−3u=y、2t=zと、おけば、x+y=zを得ることができる。
さて、明日は、最後の『段階8』は読者の皆さんもご存知のフェルマーが編み出し「無限降下法」の登場です。

N023:2000年12月12日(火)
n=3とき、フェルマーの最終定理は成り立つの『段階8』:この式から、0<|z|<|z|がわかる。つまりもとの式に解zがあれば、より小さい解z解も存在することがわかる。
ところが、これが正しければ、それよりもさらに小さい解が無限に存在することになる。
これは起こり得ないがこういった矛盾が起こるのは、最初の仮定「x+y=zに、xyz=0である整数解がある」が誤りであることを意味している。
 よって、x+y=zに、xyz=0である整数解はない。なお、場合Bも、ほぼ同様の方法で証明できる。

N024:2000年12月13日(水)
次ぎに、n=3とき、フェルマーの最終定理は昨日までの8段階で終了しましたが、オイラーの優れたところは、証明の中で、√(−3)という虚数を用いた、つまり複素数を導入したことです。これは当時としては、実に画期的なことだったのです。証明に不備な点もあったのです。オイラーは複素数の世界での証明に、実数の世界の常識を持ち込んでしまったのです。新たな理論の導入が、新たな問題を生みだしたといえます。
 しかし、この問題を解決する上で、画期的な多くの数学の理論が生まれたのです。具体的にどんな不備があったかは明日書くことにします。

N025:2000年12月15日(金)
オイラーの証明で不備な点を書きます。(a+√(−3)×b)=(t+√(−3)×u)のように、虚数を含む複素数の世界でも、積Sが立方数であれば、S=tのように表されると考えた。
 確かに複素数の世界でも、”積”や”割り切れる”といった概念は定義できるから、そこから、”素数”や”互いに素”といった考えも導入できる。しかし、複素数の場合は、”互いに素な2つの数がn乗数でも、それぞれがn乗数”とはいえないことが分かっている。この不備は、その後ガウス(1777〜1855)によって作り出されたガウス環という考えによって解決される。
問題が生じ解決され、またそれによって問題が生じるというのが、数学の歴史でもある。
 さて、「フェルマーの最終定理」だが、オイラーが指数3を証明したのが1753年。フェルマーが予想したのが1630年頃だとされるから、すでに120年以上経っているわけです。そして、これからまた、しばらく動きがない。n=5の場合の証明は1820年、ディリクレ(1805〜1859)によるものだから、60年以上が経過している。

N026:2000年12月16日(土)
「フェルマーの最終定理」の証明に貢献したのは、オイラーやガウスといった数学史に凛然とその名を残す学者ばかりでない。
 指数が5のときの「最終定理」を証明したディリクレは、ドイツのアーヘンに生まれた。彼が数学の道に進んだのは、高等中学時代の教師の影響が大きい。そこの教師こそ、後に、「電気抵抗の法則」で有名なオームであった。オームの指導により、ディリクレは16歳で大学入学の資格をとり、パリに留学。21歳で「5次不定方程式の不可能について」という論文を書き上げた。これこそ「最終定理」の指数5のときの証明だった。

N027:2000年12月17日(日)
「フェルマーの最終定理」でn=5について、ディリクレの証明を書きます。x+y=zに、xyz=0でない整数解があったと仮定すると、n=3の場合と同様に、a−5b=5乗数という形の式が整数解を持つことになる。ディリクレは、aが5で割り切れる場合と割り切れない場合に分けて証明した。
太郎さんは、この本にはこれだけしか書いていないので、博識のある皆さんにディリクレの証明過程をお聞きしたい心境です。

N028:2000年12月19日(火)

さて、「フェルマーの最終定理」でn=5については、ディリクレが証明しました。ディリクレの業績としては、「算術数列の素数定理」があります。【自然数aとbが互いに素であるとき、{a+nb;n=1,2,3,・・・}の中には、無限の多くの素数が含まれる】というものです。
 ディリクレの偉大な所は、数論の証明に解析学を用いたことにあります。解析学とは物体の運動などの連続量を扱う、それに対して、数論は整数や素数などの離散的な世界です。この2つの分野を関連づけ、橋渡しをしたのがディリクレと言えます。「フェルマーの最終定理」もこのように様々な数学の分野の複合で解かれたことになります。

N029:2000年12月20日(水)
「フェルマーの最終定理」でn=5については、ディリクレが証明しましたが、この時代、もう一人忘れてはならない数学者が、ソフィ・ジェルマン(1776〜1831)という女性である。ガウスの『整数論』を読み、数論の魅力にとりつかれた彼女は、独自にこれを研究。ルブランという男性でガウスに研究成果を送っている。
 ガウスは絶賛した。このソフィの功績だが彼女は「フェルマーの最終定理」を2つの場合に分け、場合Tのとき、奇素数pが2p+1も素数であるような数があれば、「最終定理」が成り立つとした。なお場合Tとは、フェルマー方程式x+y=zにおいて、xyzがpで割り切れないという自然数x、y、zが存在しないときで、それ以外を場合Uとしている。
この後、詳しいことは書いてありません。

N030:2000年12月21日(木)
「フェルマーの最終定理」でn=5の場合を証明したディリクレは、n=14の場合も見事に証明。しかし、n=7の場合は難しく攻めあぐねていた。そんな1839年、フランスの数学者ラメ(1795〜1871)が証明に成功した。ラメはフェルマー方程式を一般の因数分解より、より深く因数分解した。
これより、新しい複素数の世界をつくり、「フェルマーの最終定理」の指数7の場合を解決したのである。この証明にも後に不十分な点がたくさん発見されるが、画期的な方法であった。そして、1847年3月1日、パリ科学アカデミーでの講演で、ラメはついに「フェルマーの最終定理」を完全に解決したと宣言したのである。ラメの同僚のリューヴィルと話しているうちに、x+yを深く因数分解する方法を思いついたというのだ。

N031:2000年12月22日(金)
1847年3月1日、パリ科学アカデミーでの講演で、最後に演壇に上がった、フランスの数学者コーシー(1789〜1857)が「私の数ヶ月前にラメと同じ方法を思いついていた。ただ、忙しくて、完全な証明にはいたっていない」と述べたのである。それから、数週間、ラメとコーシーは一刻も早く完全な証明を作り上げようと躍起になった。お互いが自分の証明を秘密文書としてパリ科学アカデミーに送るようになって、ますます白熱化していった。
 アカデミーに文書を託すのは、後にどちらが先に証明したかが問題になったときの証拠とするためである。この息詰まるようなパリでの争いを一気に解決したのがディリクレの弟子、ドイツのクンマー(1810〜1893)であった。

N032:2000年12月23日(土)
1847年3月に、パリ科学アカデミーでの講演後ラメとコーシーがパリで火花を散らしていた、ちょうどそのころ、すでに彼らよりも深く「フェルマーの最終定理」について研究していた数学者がいた。ドイツのクンマーである。1847年4月、クンマーはnが正則と言われる特別な素数ぼ場合、「フェルマーの最終定理」が成り立つことを証明したのだ。
クンマーもラメなどと同様、フェルマー方程式をより深く因数分解することを考えていた。そのために原始p乗根、円分体などの理論を使ったのだ。そこで導かれたのが正則な素数と非正則な素数の区別である。クンマーは100までの素数が正則でないのは、37、59、67の3つだけということを確かめた。よって、n≦100については、この3つの数以外の指数の場合、「フェルマーの最終定理」は証明されたことになる。続きは明日にします。

N033:2000年12月24日(日)
「フェルマーの最終定理」の昨日続きを書きます。クンマーが生み出したのが、”理想数”と言う数字である。先ほど”より深く因数分解する”と述べた。そのため原始p乗根などを使ったが、これによって因数分解の一意性が失われてしまったのだ。クンマーは理想数を導入することで、一意性を回復したわけだ。なお、理想数という概念は、その後、大いに発展し、数学の一大分野を作るのである。 
結局、クンマーは「フェルマーの最終定理」に対する功績でパリ科学アカデミーから3000フランの金メダルをもらった。クンマーはこの懸賞に応募してはいなかったが、他に該当するような論文がなかったのである。

N034:2000年12月26日(火)

次ぎに、クンマーの証明で「フェルマーの最終定理」もnが100以下の素数なら37,59,67以外は、すべて成り立つことが19世紀中に示された。もう少しで「フェルマーの最終定理」は解決される!そんな雰囲気が数学者のなかにでてきたのだが・・・。それでも「最終定理」はなかなか解決されない。そんな1906年、「最終定理を完全に解いたもの、あるいは反例を見つけたものに、10万マルクを与える」といい残し、亡くなったのがドイツのウォルフスケールである。
この遺志は守られ、1908年に遺言が公表された。これが「フェルマーの最終定理」解決熱に拍車をかけた。続きは明日になります

N035:2000年12月28日(木)
さて、「フェルマーの最終定理」は1908年にドイツのウォルフスケールが遺言で、100年以内の解決者に10万マルクの賞金をかけてから、解決に拍車をかけた。そして、翌年の1909年。数論の世界に一大旋風が巻き起こった。
ドイツのヴィーフェリッヒが場合T(フェルマー方程式x+y=zにおいて、xyzがpで割り切れないという自然数x、y、zが存在しないとき)で、「pが奇素数として、2p−1−1がpで割り切れるときに限って、x+y=zが成立する可能性がある」ことを、証明したのだ。
ところが、この式は前に書いた「フェルマーの小定理」に、どこか似てはいないだろうか。見比べると、違いは「pで割る」か、「pで割る」かだけである。「フェルマーは、これに似た方法で『最終定理』を証明したのではないだろうか?!」
 当時の数学者は、そう色めき立った。いわゆるヴィーフェリッヒ・センセーションである。このヴィーフェリッヒ・センセーションと多額の賞金をきっかけに、たくさんの人々が「最終定理」にチャレンジした。しかし、これ以上の進展はなかったのである。

N036:2000年12月30日(土)
さて、「フェルマーの最終定理」は20世紀に入ってきました。この世紀は、他の科学の分野同様、たくさんの新たな理論が数学の世界でも生み出された。1931年、オーストリア人の数学者ゲーデル(1906〜1978年)は”正しい数学の公理でも、それが必ずしも証明できるとは限らない”ことを示した。ゲーデルの「不完全性定理」である。(これは、1930年、現在知られる論理以外には、新しい法則がないことを示した。「完全性の定理」を証明。翌年、”正しい数学の公理でも、それが必ずしも証明せきるとは限らない”という「不完全性定理」を導いた)
この証明は数学者たちの間に、センせーションを巻き起こした。「フェルマーの最終定理」を含む数学の未解決問題が、もしかすると解けるハズのない問題なのかもしれないのだ。続きは明日にします。

N037:2001年1月3日(水)
さて、延び延びになっていました「フェルマーの最終定理」の続きを書きます。1931年にゲーデルが「不完全性定理」を発表してから、もしかすると解けるハズのないのが「フェルマーの最終定理」なのかもしれないとセンせーションを巻き起こした。その一方で、ブルバキという謎の数学者が当時、数学の世界を騒がしていた。ブルバキはパリ科学アカデミーの雑誌に定期的にノートを発表したが、内容はそれまでの数学を集大成するものであった。ブルバキとは何者なのかという謎が深まるなか、『数学レビュー』の編集長が「ブルバキは実在の人物ではない」と暴露した。
 実はブルバキとは、フランスの若手数学者の集まりだったのだ。ヴェイユやシュヴァレー、デュドネといった数学者たちが創設したブルバキは、現在も続いているが、その著書『数学原論』で「数学とは構造を研究する学問」だということを数学界に認識させたのは、大きな功績である。
以上、<参考文献:図解雑学フェルマーの最終定理(富永裕久著):ナツメ社>を読んで引用しました。


 
N038:2001年1月4日(木)
「フェルマーの最終定理」に続きです。ブルバキの創始者の一人、アンドレ・ヴェイユ(1906〜1998)は1928年「モーデル=ヴェイユの定理」(アーベル多様体上のk上有理点の作る群が、有限生成だということ)を証明。1942年には、「合同式ゼーター関数についてのリーマン予想」(リーマン予想の代数幾何学的な類似物)を証明した。彼は日本人の谷山豊(1927〜1958)にも大きな影響を与えた。また、20代でブルバキに参加したグロタンデューク(1928〜)も数論上の大きな功績を残している。彼の作ったスキーム論は、素数全体を取り扱う画期的な理論である。明日は日本人の活躍ぶりを書きます。
 
N039:2001年1月5日(金)


「フェルマーの最終定理」に続きです。数論の世界では日本人が数多く活躍している。1898年、文部省の留学生としてドイツのゲッティンゲン大学に学んだ「高木貞治」(岐阜県糸貫町出身1875年〜1960)は帰国後、10年以上も独りで数論に取り組む。第一次世界大戦の勃発でドイツとの国交が絶たれ、研究の発表場所を失ってしまったのだ。国内に高木貞治の理論(日本初の世界的数学者と言われる。世界にその名を知らしめることになったのが「類体論」の研究である)を理解できる者はおらず、独りで研究をするしかなかったという。しかし、そこからもっとも美しい数学の理論と称えられる類体論が生み出された。
この類体論とは、代数体Kの上の任意のアーベル体が、Kのイデアル類群の類体になると証明のことです。さらに、存在定理、同型定理、分解定理などによって、一つの大きな世界を作り上げた。これが類体論のすべてであり、20世紀数学の最も美しい、壮麗な理論だと言われている。
  
N040:2001年1月6日(土)
「フェルマーの最終定理」に続きです。世界的に有名になった高木貞治先生の喜寿を祈念し、1955年、日本で最初の代数的整数論の国際会議が箱根で開かれた。シンポジウムでは高木先生が名誉議長となり、ヴェイユやシュヴァレーなど、数論の第一人者が勢揃いした。日本人では岩澤謙吉や、当時若手の気鋭だった谷山豊(1927〜1958)、志村五郎が加わった。このときに谷村は未解決問題を配付したのだった。その中に、現在「谷山=志村予想」と呼ばれるものの原型があった。
この谷山=志村予想は、「すべての楕円曲線はモジュラーである」というものだ。この予想が「フェルマーの最終定理」解決の重要なカギとなるのだ。それが解決されるまでには30年の年月を経なければならなかった。につながり、解決できた。続きは明日になります。

N041:2001年1月9日(火)
連載にしている「フェルマーの最終定理」の話です。日本人の谷山豊氏だが、1958年に尊敬するヴェイユにプリンストン高等研究所に招かれ、さらに結婚を間近に控えていた。正に順風満帆と思われていたのだが、11月に突然自らの命を絶つ。その理由はいまもって謎だが、婚約者も後を追い、翌年、離婚者との”葬婚式”が行われている。自分の予想が「フェルマーの最終定理」解決につながったことを知ったら、谷山氏もさぞ驚いたことだろう。
「フェルマーの最終定理」を解くカギとなった1つが楕円曲線である。楕円曲線を式にすると、y=ax+bx+cx+d と表れる。ただし、右辺を=0とおいた方程式が重解や3重解を持つものは楕円曲線ではない。次回は楕円曲線のグラフに挑戦しますが、皆さんにうまく伝えられるか、不安です。時間が欲しい。

N042:2001年1月10日(水)
連載にしている「フェルマーの最終定理」の話です。4つのグラフを書きます。見て分かるように楕円曲線といっても、楕円形をしているわけではない。もともと楕円の弧の長さを求める問題と関わりがあったので、この名がついた。アイディア自体は古く、最初に考えたのはガウスである。
 ところで楕円曲線上の有理点は加群をなす。つまり曲線上の任意の有理点を2つとって、ある操作をすると、その結果導かれる点は、もとの楕円曲線上にあるというのだ。

=(x−1)(x+x+1)=0とおいた方程式が、1つの実数解と2つの虚数解を持つ場合、接線を引くことができない点(特異点)がないので、楕円曲線といえる。
=(x−1)(x−2)(x−3)=0とおいた方程式が、3つの実数解を持つ場合、接線を引くことができない点(特異点)がないので、楕円曲線といえる。
=(x−1)(x+2)=0とおいた方程式が、重解を持つ場合、特異点(結節点)を持つので、楕円曲線ではない。
=(x−1)=0とおいた方程式が、3重解を持つ場合、特異点(尖点)を持つので、楕円曲線ではない。

太郎さんは、昔、広中平祐氏が書いた本に、上のようなグラフが描かれているのをよく見ました。1970年にフィールズ賞を受賞した論文「代数多様体の特異点解消」と関連しているのでしょう。続きは明日にしましょう。疲れた。

N043:2001年1月11日(木)
連載にしている「フェルマーの最終定理」の話です。谷村と志村は、この”楕円曲線はすべてモジュラーである”と考えた。モジュラーとはフランスのポアンカレ(1854〜1912)が考えた関数の形式である。ポアンカレは三角関数のような周期関数の研究をした。sinやcosは角が一回転するごとに、同じ波形を繰り返すように、ポアンカレは複素平面上の周期関数を考えた。
 それは非常に多くの対称性を持ち、”ある一定の方法で変換したとき、元の関数と変わらない”関数である。こういう性質を保型形式という。そして、保型形式をさらに拡張したのがモジュラー形式である。モジュラー形式は複素平面上の上半平面にあり、双曲型幾何学(非ユークリッド幾何学の一種)を持つことが知られている。さて、いよいよワイルズ氏の出番です。

N044:2001年1月12日(金)
連載にしている「フェルマーの最終定理」の話です。ワイルズ氏が登場する前の1992年の時点で「フェルマーの最終定理」が、どのくらいのnまで証明されていたかを述べます。1983年、ドイツのファルティングスが1922年にアメリカのモーデルによって予想された「モーデル予想」を証明した。この予想は”種数2以上の代数曲線は、有限個の有理点しか持たない”というものだ。
 ところが、x+y=zはn≧4のとき、2以上となる。これによって、”x+y=zは互いに素な整数解(x、y、z)を有限個しか持たない”ことが証明されたわけだ。
ところで20世紀の大きな発明にコンピュータがある。さまざまな学問で、コンピュータは威力を発揮しているから、数学でも当然、大いに貢献したと考える人も多いだろう。しかし、数学者のメインの武器は現在でも紙と鉛筆である。数学は概念の学問であって、計算の学問ではないから、コンピュータが主役になることは、今後もありそうにない。ただし、コンピュータによって数学者が強力な計算力を手に入れたことも事実である。巨大な完全数やメルセンヌ素数を筆算で求めようとしたら、一生を費やしてもとても足りない。
「フェルマーの最終定理」にも、コンピュータでの挑戦が試みられた。個々のnについて検証し、1955年に4001まで正しいことを得たのを皮切りに、1983年にはnが100万まで確認。1992年には400万までのnについて正しいことが確かめられた。結局、n=400万までは証明済み、さらにそれ以上の場合でも整数解の存在する可能性は極めて少ないことがわかっていた。明日は、具体的に「最終定理」攻略の歴史を書いてみます。

N045:2001年1月13日(土)
「フェルマーの最終定理」攻略の歴史をもう一度書きます。
1637年:フェルマーが「算術」の余白に「フェルマーの最終定理」を書き込む。▼個々のnについての証明の時代。▼
1640年:フェルマー自身がn=4の場合を書き残す。
1770年:オイラーがn=3の場合を証明。
1820年:ディリクレとルジャンドルがn=5の場合を証明。
▼場合T:x、y、zのいずれもnで割り切れないとき。場合U:x、y、zのいずれもnで割り切れるとき。▼
1823年:ソフイ・ジェルマンが場合Tのときnが素数で、2n+1も素数なら「フェルマーの最終定理」が成り立つことを証明。その後、ルジャンドルがnが素数で、2n+1、4n+1、8n+1、10n+1、14n+1、、16n+1のうち、1つでも素数なら「最終定理」が成り立つことを証明した。
1839年:ラメがn=7の場合を証明。
1847年:クンマー、nが正則素数の場合、「最終定理」が成り立つことを証明。
1909年:ヴィーフェリッヒが、場合Tに解があるとすれば60億以下ではn=1093,3511だけということを示す。
1955年:n=4001までは正しいことが証明される。
1983年:n=100万までは正しいと分かる。
1992年:n=400万までは正しいことが確かめる。
1995年:ワイルズが「フェルマーの最終定理」を解決。

N046:2001年1月15日(月)
「フェルマーの最終定理」の話になります。1984年、フライは「フェルマーの最終定理」が間違っている、つまり「x+y=z(n≧3)」に解があると仮定、その仮の解を代入してみた。これによって作られた楕円曲線y=x(x−a)(x−b)は「フライの楕円曲線」と呼ばれている。
フライはこの楕円曲線が非常に奇妙な振る舞いをすることを突き止め、こんな曲線はとても存在できないと考えた。さらに、”「フライ楕円曲線」はモジュラーではない”という予想を立てたのだ。この「フライの予想」は、当初胡散臭いアイディアだと思われたが、その翌年、カリフォルニア大学のリベットが、正しいことを証明してしまった。

N047:2001年1月16日(火)
)「フェルマーの最終定理」の話になります。ここで、「谷山=志村予想」を思い出してみよう。”すべての楕円曲線はモジュラーである”であった。ところがリベットの証明によれば「フライの楕円曲線」はモジュラーではないというのだ。この2つともが真であったらどうなるか?
そう「フライの楕円曲線」など、もともと存在できないことがハッキリするのだ。これはとりもなおさず、最初の仮定であるx+y=z(n≧3)に解があるが間違っていることを示す。結局、「谷山=志村予想」、つまり、”すべての楕円曲線がモジュラー形式”だと証明できれば「フェルマーの最終定理」も証明できることが示されたわけである。続きは明日になります。

N048:2001年1月17日(水)
「フェルマーの最終定理」の話になります。
プリンストン大学で研究をしていたワイルズは、リベットの証明を興奮を隠しきれない面持ちで聞いていた。そもそもワイルズが数学の世界に入ったきっかけが「フェルマーの最終定理」だった。「10歳の私でも理解できる問題でした。どうしても解きたいと思いました」と、後にワイルズは述懐している。しかし、、少年ワイルズにとって「フェルマーの最終定理」は手に余った。
大学の修士課程に進んだワイルズは、「最終定理」は棚上げし、楕円曲線の研究に没頭していたのだ。ところがその楕円曲線が「フェルマーの最終定理」に結びついた。このニュースに、ワイルズは運命的なものを感じていた。ワイルズは再び「フェルマーの最終定理」の研究に取り組み始めた。
 そして、1993年6月、ケンブリッジのニュートン数理科学研究所で、「フェルマーの最終定理」に関する講演が行われた。発表者はアンドリュー・ワイルズ、タイトルは「保型形式、楕円曲線、ガロア表現」である。講演は6月21日から23日の3日間、午前10時から1時間ずつ行われた。初日の聴衆は20数人だったが、彼らがこの講演の先には「フェルマーの最終定理」があることを悟った。続きは明日です。

N049:2001年1月18日(木)
「フェルマーの最終定理」の話になります。1993年6月、ケンブリッジのニュートン数理科学研究所で、「フェルマーの最終定理」に関する講演が行われた。発表者はアンドリュー・ワイルズ、タイトルは「保型形式、楕円曲線、ガロア表現」である。2日目の講演は満員。3日目は廊下まで人があふれ、ワイルズは教壇にやっとの思いでたどり着いた。カメラを携えている聴衆も多い。
 3日目、ついにワイルズは「半安定な谷山=志村予想が証明された」と宣言した。すなわち「フェルマーの最終定理」の解決である。講演の終わりにワイルズは、黒板にただ、一行、

+y+z=0⇒xyz=0 と書き、静かに演壇を降りたのである。
当時、太郎さんは1993年6月25日に新聞にこの記事が載っていたことを覚えています。このとき最終解決者が日本人でなくてがっかりしたし、きっと誰かが間違いを指摘するだろうと、半信半疑の思いでこの記事を読んでいました。勿論、教室では早速話題にしましたし、「4色問題」の解決のときのようにコンピュータの発達の恩恵があったと思うような話を生徒にしました。ドイツから出ている10万マルクの懸賞金のことも言ったような記憶があります。
さて、その後のことについては、耳に入ってこなかった。93年に母校の大学を訪れるチャンスがあったので、数学科の部屋の掲示板に、ワイルズ氏が解けたという論文が貼ってあったことを覚えている。このとき英文だったから、ちこっと見てそこを立ち去ってことを今では後悔している。ときの代数学の教授にコピーの許可をもらっておけば、自分の財産になったような気がします。残念無念。

ch3cooh>19日17時55分受信
ワイルズは、証明に1回失敗しています。(数学の知識はそれ程深くないので、記事で読んだ内容の記憶です)
失敗した箇所は、証明時にかなり難しいと予測していた部分です。1993の証明時にはミスが有る事を確認しましたが、
その部分に対するアプローチを変更し、1994年にミスが無くなった証明をし、 それが最終的な解決策になっています。
ちなみに、題名の完璧な証明ではなくある特定の条件下で成立する事の証明がワイルズの成果です。
ただし、今回の証明を発展させる事により かなり一般的な楕円曲線についても
成立する事が分かったようです。完全に解決した場合、すばらしい成果になる事でしょう。
(フェルマーが趣味で出した問題について楕円関数と非常に関係の深い問題が多かったというのも、この解決した難問の解決
手段を暗示していうるのかもしれませんね)

N050:2001年1月19日(金)
「フェルマーの最終定理」証明のニュースは電子メールで世界を駆け巡った。しかし、過去に何度も証明されたと喧伝(けんでん)され、一度として証明されなかった「フェルマーの最終定理」である。半信半疑の数学者も多い。講演後、200ページに及ぶ論文が数人の数学者によってチェックされた。そして、12月9日。ワイルズの声明が流れた。「証明は完全でなかった・・・。」
またしても、「最終定理」は、扉を堅く閉ざし、解かれる事はなかった。ワイルズは沈黙を続けた。「また、ダメだったか」。そんな話が数学者の間に交わされていた。そして、9ヵ月が過ぎた。

 N051:2001年1月20日(土)
そして、12月9日。ワイルズの声明が流れた。「証明は完全でなかった・・・。」そして、9ヵ月が過ぎた。
ワイルズの脳細胞に決定的なひらめきが走ったのは、1994年9月19日のことだった。ワイルズは、後でこう語っている。「閃光のように思いついた。あまりに単純な解決なので、信じられず、丸一日誰にも言わなかった。」
決め手になったのは、ワイルズが以前研究していた岩澤理論である。ワイルズはこの着想をわずか2週間で書け上げ、10月7日、米プリンストン大学の学術誌『アナルス・オブ・マセマテックス』に投稿した。論文は次の2編である。
2つの論文とは、、ワイルズ著◎「モジュラー楕円曲線とフェルマーの最終定理」とテイラー・ワイルズ著◎「ある種のヘッケ環の理論性質」です。
で、世界中の約20名の数学者に同時に郵送され、様々な検討が重ねられた。「証明に誤りない」という認定がおりたのは、1995年の2月13日だった。360年間の難題の解決が宣言された歴史的な日であった。<太郎さんが入力している今、窓の外はコンコンと雪が降っています>

N052:2001年1月21日(日)
「フェルマーの最終定理」は「谷山=志村予想」(すべての楕円曲線はモジュラーである)を証明すれば良いことでしたが、「楕円曲線」と「モジュラーな楕円曲線」を数えて、同数なら「すべての楕円曲線はモジュラー」である。ところが、楕円曲線は無限にあるので数えられない。で・・・、楕円曲線を数えれるようにガロア表現(群)変形。でも・・・、「谷村=志村予想」はすべてでなく、半安定な(3重解を持たない)楕円曲線の場合だけで、「フェルマーの最終定理」は証明できる。
これで、一度失敗する。ところが、1994年に、自ら「岩澤理論」を使って証明に穴を埋める。これで「フェルマーの最終定理」は1995年に認定される。ワイルズは実に多くの人々のアイディアを彼の証明の中で使っている。そのうちメイザー(ここでは挙げなかった)、リベット、コリバキン(ここでは挙げなかった)、フォンテーヌ(ここでは挙げなかった)など主な人々はその場に参加していた。しかしワイルズの使ったアイディアの中で日本人の貢献も少なくない。
まず、谷山豊氏、志村五郎氏の「谷山=志村予想」への貢献は言うまでもない。さらに、メイザーの変形理論を始めワイルズに基本的アイディアを与えた多くの理論は、岩澤理論に端を発している。で皆さん!「フェルマーの最終定理」という眺望極まりもない天山は、ワイルズ氏が登った谷村=志村予想の他にも、様々な登り口があると思われる。今後も「最終定理」を研究することで、新たな発見があるかも知れません。

どうぞ青春をかけてチャレンジをしてみてはいかがですか。
 
以上で、昨年の11月から、「フェルマーの最終定理」についてのお話を掲載してきました。参考文献は<図解雑学フェルマーの最終定理(富永裕久著):ナツメ社>です。ほとんどの文章はここからの引用であることを読者の皆さんはご承知ください。この本の関係者に深く感謝も申し上げます。

ちょっとしたこと:今日番号を整理したところ、NO52で終わりました。これは、ベル指数である
1,2,5,15,52,203,877,・・・の1つになっています。また、第27回の応募問題「源氏香」も52種類ありますから、ベル指数ですよ。
 
<自宅>  mizuryu@aqua.ocn.ne.jp

 

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